"ポスト真実"時代の企業広報(6)~リテラシーとファクトチェック(2)~(2017.10)

2017/10/25 / 総合研究室 専門研究員 石原 則幸 プリント

ファクトチェックの効用と限界

 前回、リテラシーの多様性や多層性について述べたが、これと一対をなすのがファクトチェックだ。ともに"ポスト真実"時代になって、再度脚光を浴びることになったわけである。ファクトチェック(事実検証)とは、もともとは主に政治家などの発言内容の真偽・信憑性を評価・判定するジャーナリズム手法と云われる。その代表例が、ファクトチェック専門の政治ニュースサイト「ポリティファクト」であり、08年の米大統領選をめぐる報道ではピューリッツアー賞を受賞している。


 それがリテラシー、ファクトチェックともにフェイクニュースへの対抗手段としてクローズアップされてきたのだから、基本的には一次情報である政治家の発言(トランプ氏のツイッターも含まれる)よりも、それを報道する各種ニュース(新聞・テレビ、ネットニュース・SNSを問わず)の信憑性が問われることになった。


 もともと日本の既存メディアにとっては、新聞であれば各紙の紙面審査委員会、テレビであればBPO(放送倫理・番組向上機構)が一定の抑止効果として期待されていた。 "偏向報道"との批判は、メディア同士も含め、左派からも右派からもなされるものであり、またヤラセの誘惑を完全に断ち切るのも難しいと云われる。


 さらに、近年の"マスゴミ"との蔑称は、新聞・テレビを問わず、また保守系・リベラル系を問わず、浴びせられてきた。既存マスメディアをそのように蔑んできた一定の層がSNSでフェイクニュースを作成し、それを拡散している層と重なるのならば、彼らの説得性は著しく低下するし、品性に欠けることになるが、全く異なる層であるかもしれない。


 "マスゴミ"という呼び方自体も品があるとは言えないが、最低限の客観性と合理性を有して、そのように批判しているのであれば、またマスコミ側にも批判されるだけの、ある種の歪みや恣意性の介在があれば、甘受すべきところである。その場合は、この二つの層の重なりは拡散者よりは作成者の一部に留まっているように見える。

 SNSによるフェイクニュースの大量拡散が突出して問題視されている面が見受けられるが、相手に"フェイクニュース"というスティグマを付すのは、左派・リベラルvs.右派・保守という構図においては、全く珍しいことではなかった。この両者には、政治家・団体・支持者・学者、そして当然メディアも含まれているわけだから、熾烈な論争に発展することになる。今や、それが誰もがネットに参画でき、自らもメディアとなったため、安易に多方向(含.双方向)にフェイクニュース呼ばわりが飛び交っている現状だ。互いに相手をフレームアップさせようとするのだが、英米の二つの代表的事例を見ても分かるように、両者の勢力は拮抗しているので、なかなか功を奏さない。するとまたフェイクニュースに手を染めやすくなる。まさに悪循環だ。


 ファクトチェックの重要性がより高まってきているのも、当然の成り行きであり、その対象も新旧メディアを問わない。ここで先に挙げた「ポリティファクト」の"Truth-O-Meter"と呼ばれる6段階の評価基準を紹介する。

  • (1)True: 正確な情報であり、特段の問題はない。
  • (2)Mostly True:正確な情報ではあるが、さらなる説明または追加情報の提示が必要である。
  • (3)Half True:部分的な情報は正確だが、重要な詳細情報が不足している。または文脈から逸脱して歪曲されている。
  • (4)Mostly False:若干の正確な情報を含むが、重大な事実を無視して印象操作している。
  • (5)False:不正確な情報である。
  • (6)Pants on Fire:不正確なだけでなく、馬鹿げている。

 グーグル、フェイスブックの二大巨頭もフェイクニュース対策のための警告表示やアルゴリズムの変更などに着手している。また日本でもニュースアプリの「スマートニュース」などが「ファクトチェック・イニシアチブ」を設立するなど、ファクトチェックの取り組みが加速している。しかし、問題はファクトチェッカーの立ち位置である。


 もちろん、上記の6つの評価における「正確さ」とは客観的なエビデンスに裏打ちされたものであるに違いない。しかし、先の保守・リベラルの軸に沿ったファクトチェックであれば、互いのファクトチェックの信頼性に疑問が投げ掛けるだろう。中立の立場であれば、双方から攻撃されることも考えられる。ファクトチェックのファクトチェックなどという混乱した状況を招けば、フェイクニュース合戦と同じ様相を呈することになろう。

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リテラシーとファクトチェックの相互補完

 新聞の発行部数の減少と影響力の低下が叫ばれて久しいが、今なお、世論形成における役割は小さくない。それは新聞社や新聞記者の使命自体に対する期待が(実態とのギャップがあるとしても)小さくないこととまだ相通じている。いくら公平中立を謳っていても各社には社論があり、政治報道以外でも論調の違いが見られる。したがって、メディアリテラシーを身につけ、磨いていくには複数紙を併読することが推奨される。


 さらにいえば、メディア接触は何も新聞に限る必要はなく、幅広くマルチメディア(新聞・雑誌・テレビ・ネット・書籍・レポート・報告書・論文等々)に触れ、チェックする姿勢が望まれる。実はそうすることによってセレンディピティも育まれ、政治的・思想的立場に関係なく(何も中立でなくても良い)、自分なりのバランス感覚で真実に近づいていくことができるのである(但し、特定信条に凝り固まったり、マインドコントロールされた場合は除く)。


 例えば、「朝日」と「産経」のニュースを読み比べる、リベラル派と保守派のファクトチェックを比較分析する。そのような継続行為によって、どちらが正確か(「正確さ」が多いか)、さらにいえば、ある事実に関してどちらかが無視している、あるいは、どちらも触れていない重要な事実がある、ということに気付いてくる。また、どちらがファクトで、どちらがフェイクかという二元論・二分法ではなく、それぞれの割合を見抜くことが重要であるが、それ以上にどちらの論が特定のマターやイシューに対して、個別の利害や感情論を超えてソリューション(解決)を提供できるのかという視点に冷静に回帰すべきなのである。


 「朝日」と「産経」は、たまたま例として挙げただけで、両紙をどうのこうのと論評するのは本稿の目的ではない。個別のニュース毎にいえば、スクープや特オチも含めて、各紙、勝ったり負けたりだろう。社論でいえば、それぞれ譲れないラインもあるだろう。

 ただ、そのなかで各紙の"クセ"を見抜けるようになれば、それを差し引いて読めば良いわけである。そうなれば、単なる字面だけでなく、"眼光紙背に徹する"ことになる。

 これがリテラシーに裏打ちされた内発的ファクトチェックである。


 ただ、この作業は面倒である。現代人の利便性と効率性に対する欲求は止まるところを知らない。拝金思想を拝金教と揶揄する文脈と同様に、利便教とも効率教とも呼べるところまで来ている。新聞紙離れは、活字離れともシンクロするが、新聞・テレビ離れは、マスコミ報道そのものの信頼性に関わっていることは、今や否定し難い。むしろ、それだけならば、他の情報にも当たってみる動機が存在するのであるから、アパシーによる思考停止状態にもならないはずである。


 ところが、SNSニュースにおいては、記事本文・作成者・情報源・引用元、日付、URL、同一マタ-の他媒体記事等々の確認もせず、情報端末のニュースフィードやヘッドラインに即座に反応し、軽々にシェアまたはリツイートボタンを押して拡散してしまう。クリックベイトに引っ掛かるパターンなどは、まさに脳を介さない脊髄反射そのものである。

 このような安易さにあまりにも慣れて(慣らされて)しまったのだから、フェイクニュースが蔓延する環境は整備されていたのだ。何でも効率化、スピード化、中抜きをし過ぎた、そのツケが回ってきた結果とも言えるのである。


 既存メディアの記事については、その基本は5W1Hで書かれていることは広く知られているが、その記事は、事実、意見・オピニオン、解説・解釈、紹介・引用、推測・予測などで構成されている。先のネットニュースともども、これらはニュースリテラシーの基本中の基本であるため、都度ニュースに接触するたびに面倒な作業が要るわけではない。この理解を保有しているかどうかが、安易に拡散するか、冷静にスルーするかの分かれ目となり得るのである。


  フェイクニュースの判定に当たっては、正常性バイアスや確証バイアスなどの認知バイアスの問題が取り上げられることも多い。それが認知不協和理論に従って、バックファイアー効果として現われる。「貴方の信じている、そのニュースはフェイクですよ」と言われても、逆効果になるということである。まさに"ポスト真実時代"が論理・理性よりも感情が優先すると云われる所以である。ただ、直感を信じるとか、誤った認識を正すという選択・行為も決して珍しいことではない。自らの認知の狭さ・浅さに気付かされるかどうかが問題なのである。


 さて、ここでも論理と感情を二元論的に取り扱うことには無理がある。この二つは表裏一体のものである。感情を持たない人間などいるだろうか。どのような論理にも破綻のリスクはあるし、感情には、喜怒哀楽の各チャンネルがあり、良い感情と悪い感情にも分かれる。

 良い感情が顧みられなかったために、悪い感情に走るということもあり得る。このような人間理解もリテラシー力を構成する重要な要素であることも忘れてはならない。


 ハンナ・アーレントの凡庸の悪魔の視点から、フェイクニュースの作成者や拡散者を眺めることもできよう。この凡庸さはリテラシー力を含んでいないからである。また、凡庸な精神を持つ人びとを"大衆"と定義したオルテガの次の言葉が注目される。


 「炯眼の人は、自分が愚か者と常に紙一重であることを知って驚く。だから、目前の馬鹿げたことを避けようと努力するし、その努力のなかに知性が存する。それに対し、愚か者は、自分のことを疑ってみない。自分がきわめて分別があるように思う。馬鹿が自分の愚かさのなかに胡坐をかくあの羨むべき平静さは、ここから生まれるのである」。


 「・・・かつまた、実際にこれが専門家の行状なのである。政治、芸術、社会的習慣、自分の専門外の科学について、彼は原始人か、極めて無知な人間の態度を取るだろうが、その態度は力強く自信に満ちていて―これが逆説的なところだが―、それらの問題の専門家の意見を容れないだろう。文明が彼を専門家に仕立てたとき、彼自らの限界のなかで満足させ、閉鎖的にしてしまった。しかし、自分が頼もしい価値ある人間だという内的な感情それ自体が、自分の専門外のことまで支配したいという気を起させるであろう」。


 さて、この"大衆像"からリテラシーを感じ取ることができるだろうか。特に下段は"大衆的人間のように行動する"エリートを想定・批判しているのである。このようなタイプの人間がフェイクニュースの作成者や拡散者とも一部重なるのである。特に、拡散に際しては、明瞭な目的を有している層と、内容以上に拡散行為自体を楽しんでいる層も見受けられる。リテラシーの重要性は強調し過ぎることないが、同時に常識の復権が望まれるのである。

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