"ポスト真実"時代の企業広報(7)~リテラシーとファクトチェック(3)~(2017.11)

2017/11/29 / 総合研究室 専門研究員 石原 則幸 プリント

フェイクとファクトの意図の分布・点在

 リテラシー、ファクトチェックともに、その重要性が高まってきているのは、"ポスト真実"時代におけるフェイクニュースの氾濫という今日的現象と状況の現出、逆に言えば、フェイクニュースの氾濫による"ポスト真実"時代の到来によるものであることは、これまで述べてきた通りである。しかしながら、同様にリテラシー、ファクトチェックともに、何も目新しいものではないことは、フェイクニュース自体が古くから存在していたためであった。


 ただ、"フェイクニュース自体"といっても、これが「第一次情報」や「情報源」のフェイク意図(有、無)と、その「媒介者」や「拡散者」のフェイク意図(有、無)を併せて考慮すれば、二通りの(有、無)により、計4パターンのフェイクニュースが成り立つ。

 ただ、成り立ちはするが、各パターン毎のフェイク度合い(フェイクとファクトの比率)が変動していく。一つずつ見ていこう。

 まず最初に、フェイク意図(情報源:無、媒介者:無)の場合であれば、両者ともに意図は(無)であるから、100%ファクトニュースかといえば、そんなことはない。当然、悪意はなくても、誤報など記者の認識・思いこみ・先入観からは免れられない場合があるからだ。


 二つ目のフェイク意図(情報源:有、媒介者:無)の場合はどうか。これは情報源の見方や主張をそのまま伝えるのか、批判的に捉えるのかによって、論調は異なる。前者はもともと両者間の主義や価値観に近い場合と、記者としての情報源(取材元)に対するリテラシーの欠如によるものに分かれる。

 また、後者は自らの記者としての価値観や立ち位置に関係(予断)なく、あらゆる情報源に平等に相対するリテラシーを保有しているケースと、明らかに記者が情報源とは異なる(対立する)価値観を保有する場合に分かれ、記者側の価値観が強過ぎると、情報源のフェイク意図を完全否定することによって、対極のフェイクニュースを創作してしまう結果にもなり得る。


 さて、三つ目のフェイク意図(情報源:無、媒介者:有)の場合はどうか。これは正にメディアの信頼性そのものに関わる大きな問題である。情報の改竄やでっちあげにも繋がりかねず、情報源を貶める悪意に満ちたものにさえなり得る。二つ目の最後のパターンもこれに近い。もともとフェイク意図を持っていようがいまいが、情報源としてのニュース価値を見出しながら、社会に広く紹介したいとの目的から著しく乖離している。というよりも、反転してしまっている。このような場合の記事には、主語が判然としないものが多いのが特徴だ。


 四つ目のフェイク意図(情報源:有、媒介者:有)の場合にはどうなるか。この両者の"有"が同じ価値観に立ち、同じベクトルを向いているならば(保守と保守、またはリベラルとリベラル)、ファクトニュース(協同)とフェイクニュース(共犯)のバランスは微妙なものとなろう。

 双方が異なる価値観を持っているならば、互いに否定・反論の応酬が継続し、どちらか一方がフェイクニュースであると断ずることが極めて困難な状況になる。この場合、肝心のファクトは一旦脇に追い遣られ、双方自己都合は強く主張し、自らの不都合な部分には触れないという態度に終始し、全くの非建設的論争に堕してしまいがちになる。


 以上四つのパターンに内在する複数のケース全てがフェイクニュース発生の分岐点になり得るのである。そして、そこで一度出来てしまった流れが世論形成によい影響を与える(フェイクニュースを見破る)こともあれば、悪い影響を与える(フェイクニュースを真に受ける)こともある。


 前者は、世論の土台・基盤のリテラシー力が高い水準にある場合であり、後者はそれが低いレベルに止まっている場合であると、静態的には想定することができる。 ただ、この"分岐点"は多様な要因によって、動態的に移動(変動)していくので、実はフェイクニュースの表出とリテラシーの具備(有無)との関係は相対的であらざるを得ない。


 ただ、その相対的関係性の枠組みは、取材元(第一次情報/情報源)と取材者(媒介者/拡散者)との二者間の関係に限定したものであり、例えば、フェイク意図構成パターン(情報源:有or無、媒介者:有or無)のなかのどの組み合わせであっても、この"限定"は変わらない。もともと取材元(源)がいない(架空)や取材者が取材活動をしていない場合は、最も初歩的で稚拙なフェイクニュースであるため、さらに"限定"された世界の物語でしかないことは強く再認識しておく必要があろう。


 ここまでフェイクニュースの意図が多様に点在するが、大きく分けて4パターンの成立過程を観察することができ、その各過程の内部にも、フェイクニュース成立・不成立に影響を与える多様な変数が存在・作用しているため、フェイクニュースとリテラシーの関係は、実は相対的でしかあり得ないことを指摘した。


 要は、"フェイク意図"を有する可能性を有する二者(情報源と媒介者)間のせめぎ合い・緊張関係と協調・支援関係から生ずるフェイクニュースとファクトニュースの誕生力学を見てきた。そこでは両者の信頼関係、それとは逆のある種の騙し合い、そして相互のリテラシーが介在している。ただ、このリテラシーがより重要視されてきたのは、この二者間ではなく、この二者と情報の最終受信者(視聴者、読者、ネットユーザー、国民)との関係においてであり、リテラシー力向上の期待をかけられたのは、常に情報受信者側であった。

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ターゲットの変容

 ここで、情報の流れとしての情報源-媒体者-受信者の三者が出揃ったところではあるが、フェイクニュースの表出とリテラシーの具備(有無)との関係は、三者間であっても相変わらず相対的でしかない。ただ、相対的ではあるが、三者間の相関関係はかなり明確になってくる。"受信者"とは、まさに対象者、ターゲットである。

 従来、マスコミ・ジャーナリズムの重要な使命の一つは、社会に対する"真実の伝達"である。そして、この社会とは、あらゆる"受信者"によって構成されているのは言うまでもない。したがって、この受信者は、ファクトニュース・フェイクニュース・プロパガンダ・情報操作等々全てのターゲットになる。

 つまり、そのターゲット総体の一定の総意としての世論を何とか形成(悪く言えば、誘導)しようと、各勢力が競ってきたのである。


 その際、マーケティング的なセグメンテーションとターゲティングと心理学手法も駆使して、あるカテゴリーやクラスターに働きかけ、その意思決定に重要な、もしくは有効な影響を与えていこうとする意図や行為は、「旧型のフェイクニュース」の展開のなかで、観察できたことである。そこでは、まだ各社会的セクター間の信頼関係はある程度は維持されており、二つの異なる集団間での対立構図も一定の多様性が付与された状況、即ち、言論の自由・報道の自由のなかで、"当然視された許容"の範囲内に収まっていたと見ることができる。


 ところが、現在の「新型のフェイクニュース」が氾濫する状況のなかでは、ターゲットAを攻撃することにより、ターゲットBの信念の強化に資しているだけとのことが指摘されている(これは単なる確証バイアスと言い切れない面がある)。そして、その"信念"は保守派であってもリベラル派であっても、真実とは限らないことがあるわけである。つまり、純粋なコミュニケーション対象としてのターゲット総体が、当たり前のことだが、すでに幾つものグループや集団に区分・分化・層化されてしまっているのである(ネット上ではフィルターバブルやコクーン化)。


 これが趣味嗜好の世界にとどまらず、政治的意見や態度までに先鋭化したため、価値観の分裂や社会の分断と言われる現象にまで至ってしまったわけだ。

 事ここに至るまでの経過のなかでは、ターゲット総体として見た場合でも、オルテガ的な大衆像や、ましてやB層だけで括り切れるものではない。それが先程挙げた「情報の流れとしての情報源-媒体者-受信者の三者」間の信頼関係が情報源-媒体者間、媒体者-受信者間、そして情報源-受信者間のいずれのベクトルにおいても著しく低下した結果として現われ、混乱したものとして捉えられるのである。


 トランプ大統領や西欧諸国の極右を出自とするポピュリズム政党が、何故その支持率を急落させないかというと、彼らの支持者層が既成の政党やエリート層に対する信頼を完全に喪失してしまったためである。彼らは自らを"置き去りにされた"、"忘れ去られた"存在であると見做している(看做されている)のである。その前提には、彼ら(の存在や要求)を「無視してしまった事実(ファクト)」と、彼らを「支援(救済)するとしていた虚偽(フェイク)」が明らかになったがために、「(既成政党や各界のエリート層に対して)裏切られた、もう信じられない」との強い信念に至ったのである。


 したがって、その態度を単なる狭小な頑迷さや思考停止といって、切り捨てられない側面があるのである。また、排外主義的思考も移民や難民が多い国とそうではない国(日本)とを一概に比較できない面もあるのである。さて、そうなると彼らをリテラシーの欠如した人たちと決めつけることも難しくなるし、その決めつけ自体がフェイクとなりかねない。


 また、「貴方が信じていた情報(ニュース)は嘘だったのですよ」と言っても納得してもらえず、彼の確信を強めるだけとの現象が報告されているが、これは先にも述べたように、訳知り顔で「それは確証バイアスだ」などと断じ得ないものがある。それまでに至った経過を想定すれば分かることだが、例えば、ヒラリー支持→トランプ支持に変容するまでに、彼がどれだけ裏切られ、閉塞感と絶望感に苛まれてきたかを克明に追ってあげれば、その感情と論理とをともに伴った思考過程と結論であったことが容易に理解されるはずだ。


 それでもまだ、彼の下した意志決定を確証バイアスだと論じるならば、何故、閉塞感と絶望感を抱かざるを得なくなったのかの背景分析・状況分析をする方を優先すべきだ。

 彼が何度も裏切られる前は、実はなんとも無邪気な正常性バイアスを持っていたとも十分考えられるのだ。だからこそ、彼(ら)は騙しやすく、そのため結果として裏切られるとも言えるのである。この深刻な生活状況・生存条件という局面に杓子定規な政策リテラシーを単純に当て嵌めてよいものかどうか、よくよく考えなくてはならないだろう。


 ここで「フェイクニュースの効果測定」を考えてみたい。いかにもおかしな言葉なのではあるが、例えば「ローマ法王がトランプ氏を支持」とのニュースに接して、それを本当だと思い込み、トランプ氏を支持した米国民は、実際のところ何人くらいいたのかということである。ただ単に面白いから拡散したという人が多かったのならば、それはフェイクニュースとしての効果があったと言えるのだろうか。フェイクニュースの氾濫は、量的側面と質的側面(効果)の両方からの分析・検証を待っている。


 さて現状の喫緊の課題は、前述した各社会的セクター間の信頼関係がどのような経過を辿って、低下・崩壊していったのかを知ることの重要性を要請している。ファクトチェックにしても、ファクトチェッカーの立ち位置とその人自身、そしてチェック内容の全てを含めた総合的な信頼性の問題に行き着くのである。リテラシーの問題は、一人の受信者だけに押し付けるものではないし、発信者側の誠実さとセットで考えなければならないのは当然である。さらに言えば、リテラシーの種類はもとより、その尺度と該当妥当性を局面によって見極めながら、発展・活用していく柔軟性と洞察力の獲得が必要である。

 しかしながら、専門家以外の多様な視点や生活者としての直感なども、リテラシーにとっては重要な武器になることも付け加えておきたい。

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