SPNの眼

「朝日新聞」問題を考える(2014.10)

2014.10.08
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1.問題の複雑性

 朝日新聞が窮地に追い込まれている。事の発端は、言うまでもなく8月5日、6日に同紙に掲載された二つの報道に関する検証記事である。一つは、東京電力福島第1原発事故を巡る、いわゆる「吉田調書」に関する報道について、もう一つは、一連の従軍慰安婦報道についてであり、ともに誤報を認めた。しかし、この検証記事が中途半端な検証にしかなっておらず、また明確な謝罪の言質がなかったということで、翌9月11日には、木村社長以下の謝罪会見に追い込まれたわけである。ただ、その後も朝日に対する逆風は、保守系の新聞・雑誌を中心に止まるところを知らない。

 この二つの吉田問題には、共通する要因もあるのだが、特に最初の報道から30年以上経過している慰安婦報道に関しては、その問題としての根深さや国際的影響の拡がりを考慮した場合、客観的かつ明瞭な、さらに冷静な議論の展開が必要である。

 そこで、その朝日バッシングの行きすぎを諌めたり、バランスを取るような論調も散見せられるようになってきたが、未だ、親朝日と反朝日の議論が噛み合っていないように見える。この問題について、危機管理の視点から、取り上げてみたい。

 この問題で、今一つ消化不良なのは、慰安婦問題を構成する複数の要素要因が、同種類の事柄同士の対立軸として、同一の土俵で分かりやすく描かれていないことである。議論が進んでいるようで進んでおらず、深まっているようで深まっていないのである。

 つまり、ともに言いっ放しの観が否めない。いつまでたっても議論が噛み合わないため、本来期待されるべき論理的な反論・再反論の応酬が見られない、いや、もうこれ以上主張は通らないと断念し、取り消し・謝罪する場面すらも見られないのである。

 さらに、悪いことに、この問題の中心や本質から離れた、派生した問題に論点や焦点が移っていったりするものだから、関連した問題について個々に、各媒体とも終始一貫した論調を維持することも、明確な是々非々を論じることも、ともに不透明であやふやになってしまっているのである。派生した問題には、派生した問題なりに看過できない本質論が内包されていることは間違いない。しかし、派生する前の元の問題の本質論が噛み合わないまま、議論範囲が拡張し、論点が転移していくので、親朝日・反朝日のどちらかに与するにせよ、多くの国民にとって、問題の本質を秩序立てて理解することが困難になっている。

2.危機管理アプローチによる問題整理

 そこで、多層構造を有してしまった、この問題の仕分け・整理を試みたい。まず、一組織・一企業単体の危機管理として、朝日新聞社を見た場合、どうなるか。危機管理の基本から見て、その対応で拙かった点は幾つもある。

 一つ目は、検証記事の掲載がとにかく遅すぎた。「吉田調書」関連については、非公開であった文書が朝日のスクープにより、存在が明らかになり、その後、他紙の報道も続き、政府が公開を踏み切るタイミングに合わせる必要もあったのだろう。しかし、慰安婦記事の検証はあまりにも時宜を失していた。しかも、この検証記事においては、「吉田調書」の方に重きが置かれ、慰安婦報道については、悪く言えば、副次的な”ついで”感が否めないのであった。

 したがって、二つ目は記者会見をするにせよしないにせよ、自らの検証結果や調査結果の公表に際しては、外部からの批判に十分堪えられるような客観性と説得力を持ち併せていなければならない。それによって、数次に亘る開示の手間を省き、早めに信頼回復モードに入ることが肝要なのである。もちろん、この問題はそれ程簡単に事が運ぶレベルではないが、それにしても、検証・原因究明や謝罪の不十分感が払拭できるものではなかった。

 ましてや、三つ目として、8月5日付け一面の編集担当によるコラムは、ただ論点を逸らすのみならず、この大型検証記事を掲載せざるを得なくなった原因である”朝日的モノの見方”、”朝日的歴史観”はこれまで通り継続するとの宣言になっていた。

 問題の複雑さに反し、検証が不十分な上に、こんな的外れな”宣言”をすれば、必要以上の疑義や批判を自ら呼び込むことは必定である。

 そして、四つ目には、その場凌ぎと思われるような同様の傾向の続報を載せた。危機管理においては、場当たり的対応は厳禁なのである。

 この時点で、朝日は自身を冷静に見る眼を失っていたと推測される。今自身が、自社が、社会のなかでどのような立ち位置にいて、どのように見られているかの正常な判断が狂い、冷静な感覚が麻痺してしまったように見える。

 そのため、五つ目に朝日批判のボルテージを上げる週刊文春と週刊新潮に対し、広告掲載を拒否すると同時に抗議し、両誌に関連記事の訂正と謝罪を求めたのである。自社が現在、”まな板の上の鯉”であることの自覚が全く感じられない行為であった。鯉が料理人に抗議したのである。

 さらに、六つ目に池上彰氏のコラム連載拒否へと続く。この時点で、朝日は周囲が全て自身の敵に見えたのではないだろうか。辺り構わず鉄砲を乱射したようなものだ。これにより、従来の朝日ファンの多くの心が同紙から離れてしまったのではないだろうか。

 そして最後になるが、七つ目に、検証記事掲載時には全く予定も想定もしていなかった記者会見を開かざるを得なくなったのであろう。もちろん、会見を開けば開いたで、さらなる疑問や批判が続くことは避けられないが、この時点では、これまた遅すぎると言われても最早、会見を開かないという選択肢はなかったであろう。

 新聞記者の多くは企業や団体、ときには政治家の不祥事などの釈明会見やお詫び会見に数多く出席している。そして、その結果を記事化し、論評している。そのなかで、当該企業などへの批判の中心となるのが、実は、上掲の七つのミスや失敗に関わることが多い。

 曰く、「危機管理が全くできていない」と。これまで新聞に限らず、マスメディアは他者への攻撃には強いが、自らの防御には弱いとか、「自分のことは棚に上げて」などと揶揄されてきたし、自らもそれを自己弁護にしてきた面は否めない。しかし最早、そのような時代は終わったとの認識が全言論人にとって必要である。

 さて、ここまで一連の朝日の対応を危機管理対応の基本に照らして見てきたが、実は危機管理プロセスは、リスクマネジメント、クライシスマネジメント、そして再発防止・信頼回復マネジメントの3つのフェーズに区分される。朝日が七つのミスや失敗を犯してしまった対応区分は、二番目のクライシスマネジメントに該当するものである。ここでの救いは、遅きに失したと言いながらも、とにかく検証記事で誤報を認め、訂正したこと、それに続き、社長出席の記者会見を開催したことであり、もし、この二つをともにしなかった場合と比べれば、余程ましであった。

 またそれ以上に、この間に社内から会社の姿勢に対する疑義が記者のツイッタ―などで発せられ、内外の批判の声に向き合うようになったことだ。それが、慰安婦問題を巡る報道を検証するための第三者委員会の設置につながったと見て良い。

 ジャーナリズムたるもの本来は自らの手で検証すべきであって、外部の有識者に下駄を預けるべきではないとの指摘もある。尤もな意見であるが、現在の朝日には、完全な自己検証は不可能であろう。それだけに、第三者委員会の検証結果が大いに注目されるところだが、10月2日に発表されたメンバー構成は、公平さを担保したものと考えられる。

 それでは、一番目の危機管理プロセスであるリスクマネジメントにおいては、どうであったのか。一民間企業としてのリスクマネジメントとしては、発行部数の低下を食い止め、リストラを断行してでも、収益性を確保するという選択が当然あり得る。

 一方、言論機関としてのリスクマネジメントを考えた場合、どのような方針が考えられるであろうか。大企業病としての組織の硬直化を防ぐ、変なエリート意識は持たない、あるいは自由闊達で多様な組織風土を維持するなどの方針が考えられよう。

 ただ、一連の保守系メディアからの批判のなかには、それらができないままに、各編集部署がタコ壷化して、他部にモノが言えなくなっていたことが指摘されている。それが慰安婦記事を訂正するのに、あまりに長い時間が掛かってしまった大きな要因の一つであろう。”朝日的歴史観”が誤報のままで、社論を形成するようになってしまってからでは遅すぎたのである。「組織内で情報共有がされていなかった」、「モノが言える雰囲気ではなかった」などという内部事情や、「社内の常識が社会の非常識」という吐露も、不祥事企業の報道のなかではしばしば聞かれるところである。

 要するに、「自ら襟を正す」という姿勢は、どの業種にも、どの職種にも当てはまることなのであり、「自らが特別な存在である」などという思い上がった気持ちは厳禁であろう。「ジャーナリストとして特別な役割を担っている」との使命感は非常に重要であろうが、それが独りよがりな傲慢さを帯びたときは、結果的に自分で自分の首を絞めることになるのだという冷静な自己分析と謙虚な気持ちを忘れてはならないだろう。

 また、マスメディアは企業や団体の広報のミスリードを嫌い、批判する。当然のことであろう。それでは、マスメディア自身がある先入観や思い込み、あるいは偏った歴史観の下に世論をミスリードした場合はどうなのか、それが今問われているのである。

 否、より正確にいえば、本当にそのミスリードがあったのか、あったとして、それは何故起きたのかについての徹底した検証であり、前向きで発展的な議論である。その意味でも、朝日の第三者委員会の検証結果への期待は大であり、その責任もまた重大である。

3.問題解決への方向性

 さて、ここまで今回の朝日新聞を巡る一連の問題を企業の危機管理の側面、主にリスクマネジメントとクライシスマネジメントの二つのフェーズに即して論じてきた。しかし、言論機関、しかも、日本を代表する大新聞社の誤報を巡る問題を危機管理というマネジメントの尺で論じることは適切でないとの指摘も当然成り立つであろう。

 しかしながら、それ故、三つ目のフェーズである再発防止・信頼回復マネジメントが極めて重要になってくるのである。何故なら、このフェーズには朝日新聞単体のみならず、マスメディア全体、さらには日本国という、より大きな範囲と単位での信頼問題が直接関わってくるからである。

 そのことを論ずる前に、今回の一連の問題の論点を拡散させてしまった、派生問題にも言及しておく必要があろう。8月以降の保守系メディアからの大洪水ともいえる一斉の朝日攻撃の言説には、その大部分において首肯できる面が少なくない。ただ、その見出しや表現においては、戦前と見紛うべき「国賊」やら「売国土」などの眼を覆いたくなるような口汚い言葉が並ぶ。「結果として、その通りだろう」との指摘も否定しがたい面も確かにあるのだが、品位の問題や発行部数増の問題にクローズアップしたいのではなく、それらの表現が、ネトウヨを中心としたヘイトスピーチとの近似性・親和性を有していることに問題があるのである。

 事実、当初慰安婦関連記事を書いた元朝日記者が勤める大学に、本人の解任を迫ったり、大学内に爆弾を仕掛けるなどの脅迫状が送られたり、元記者本人ばかりでなく、その家族を誹謗・中傷するコメントや画像までもネット上にアップされている。

 これに対して、主要新聞各紙は、リベラル・保守の違いを超えて「問題の所在が別」だとして、10月3日一斉に社説で、こうした卑劣な行為を批判している。

 日本を代表する一流の保守系雑誌が「国賊」やら「売国土」やらの言葉を連続して使用していれば、ネトウヨや今回の脅迫者などの行為を結果的に後押ししている面はないだろうか。冷静な判断が必要なときである。新聞各紙の社説のように卑劣な行為を批判する声を挙げるべきではないか。

 この問題が明らかになってから、新聞では「言論には言論で反論すべき」との識者のコメントが多く紹介されているが、残念ながら雑誌上でそれを見ることができない(現在までのところ)。まさか、「自業自得だから、仕方がないことだ」などと考えているわけではないだろう。保守系雑誌、ならびにそれらに寄稿することの多い識者には、問題の本質が違うことと、決してネトウヨやレイシズムを応援しているわけではないと高らかに言明し、「言論には言論で」ということで、議論を元の正常なポジションに戻してほしい。

 そのためにも、ただ「朝日を潰せ」とか「集団訴訟の提起を」といった感情論を煽るような言説を控え、それが社会全体や特定グループにどのような影響を及ぼすのかにも十分考慮すべきであろう。

 さて、そこで再度焦点となるのが朝日の第三者委員会による検証結果である。特に、朝日側に反省すべき、また改善すべき点が少なからずあるのなら、朝日は真摯にそれを認め、謝罪し、再出発を図るべきである。朝日が廃刊したとして、その分の発行部数が全て他紙に回る程、既存メディアの置かれている環境は甘くない。

 また、検証結果から問題の本質の全てをつまびらかにすることは難しいかもしれないし、もしかすると無理なのかもしれない。ただ、仮にそうであっても、その後の前向きな議論・相互批判の道筋は、是非とも付けてもらいたい。そこで議論が一方的に打ち切られたり、相変わらず、互いに言いっ放しにならないよう、議論が噛み合うような道筋を付けてほしいのである。

 例えば、「国益を損ねた」との言い方がある。これには、日本が先程の大学や元記者を脅迫するような国であると海外から見られることも十分国益を損ねているという視点もあり、一連の慰安婦報道が日本および日本人の名誉を著しく傷つけたということとのどちらを選ぶとか、どちらがより大きいなどという議論ではなく、ともに避けなければならない問題なのだという認識から出発しなければならない。

 一つひとつのテーマに対し、先入観や固定観念に囚われることなく、丁寧に「言論には言論で」の姿勢を堅持して、議論を進めるべきであろう。これは元朝日記者自身にも言えることである。

 そのためには、繰り返しになるが、朝日は改めるべき点は改め、再生のための着地点に立たねばなるまい。朝日を批判する側も節度を保ち、「池に落ちた犬」だからといって、闇雲に叩き続けるのは、慎むべきであろう。あくまでも朝日の反省の本気度合いと、第三者委員会の検証結果とを踏まえ、必要とあらば、さらなる徹底検証と誤報の詳細な経緯説明を求めていくべきである。誤報自体は、どのメディアにも起こり得ることであるが、今回の件から、全ての新聞社が教訓とする部分と朝日が教訓とすべき点を仕分けることも必要だ。

 朝日が戦前の大本営発表協力の反省に立って、権力を監視するメディアとしての役割を強く意識していたことは理解できる。ただ、何でも反権力なら正しいかといえば、そんなことはないだろう。リベラルであれ、保守であれ、各言論機関は時の権力に対し、是々非々で臨むことが重要であろう。両者によって、是と非が逆転するのは結構なことであり、そのプロセスを国民に提示することが、メディアリテラシーの向上にも繋がる。まさに、「言論には言論で」の姿勢を見せてほしいものである。

 その結果が選挙に現れ、極端な振れ幅で政権が交代しようが、これはこれで仕方のないことである。野党勢力が弱いからといって、反政府の立場を必要以上に気負いを持って、メディアが対峙すると無理な報道を続けたり、誤りを正せなくなったりすることがあることに留意すべきである。政治の振れ幅が大きいのは、小選挙区制の問題もあるのだから、むしろ、その点を強調すべきではないだろうか。

 国内のマスコミの論調・言説の左右両派の振れ幅が、仮に1~10だとすると、それが3~10になったとしても、それで右傾化と言えるかどうかは微妙な問題である。それが6~13にならないようにするのがリベラルの役目であるし、実は保守の矜持でもある。

 朝日の一連の慰安婦報道が国益を損ねたという結論に達するためには、つまりは朝日側もそれを認め、納得するためには、もう一度、吉田清治証言や金学順証言などの徹底した検証とそれに基づく冷静な議論、そして河野談話とクマラスワミ報告、さらには米議会での対日批判決議と米国内での慰安婦像建設の動きの背景などを一つひとつ真実に沿って伝えていく努力が欠かせないだろう。その結果、何がしかの日本を貶める意図が働いていたのなら、オールジャパンでそれに対抗していくべきだし、具体的根拠を持って反論し、世界に向けて発信・説明していかなければならない。

 ただ、これは口で言う程、簡単なことではない。従軍慰安婦問題のみならず、南京大虐殺問題も含めて論破していくには、並々ならず覚悟が必要だ、東京裁判史観やサンフランシスコ講和条約をも覆すことになりかねないし、ヤルタ会談やポツダム宣言、ハルノ―トの妥当性などへの全面的な検証まで及び、さらには戦後の米国主導の世界秩序にも反することにもなる。ただ、日本が戦前の軍部主導のファシズムに戻ることは、絶対にないということを世界に理解させねばならないのである。この点において、リベラル派の新聞が果す役割が全くないわけはないのである

 今や、自虐史観も自尊史観も乗り越え、その双方のリスクを十分把握した上で、新たな国家像・国の枠組みを模索する時期に来ている。そのためには、多様な言論機関が共存していることが重要である。また、それらは他者批判のみならず、自己批判もきちんとできる健全さを持ち合わせている言論機関でなければならない。

 さらには、そのために”第4の権力”を監視できる国民のリテラシーが欠かせないのだから、国民もまた真実を知る努力を怠るわけにはいかないであろう。

 また、国益を損ねた結果の全てを一報道機関に帰することは間違いである。政府の海外PR、誤解を解く努力も足らなかったことは事実であるのだから。

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