お知らせ 2013/04/03

「責任」を考える(2013.4)

危機管理と諸「責任」

 危機管理における「責任」を考えるときに、まず思い浮かぶのはコンプライアンス違反事例における「法的責任」ということになるでしょう。これは、正に法令を遵守できなかったわけですから、問われるべくして、問われる責任ということになります。

 危機管理の世界において、それ以上に広く、強く求められるものとして「説明責任」(accountability)があります。

 特に、企業に対しては、事件・事故・不祥事などを起こした際には、社会全体に対して、記者会見などを通じた十分な説明責任が求められます。

 何故、記者会見かというと、マスメディアは社会に大きな影響を与える事象を、ニュースとして伝え、広く社会に知らしめる使命を有しているからです。つまり、企業の説明責任の大部分はマスメディアを介して読者・視聴者、つまり国民に対して果たされるものということになります。

 この責任を果たさなければ、企業は”社会の公器”としての資格を失い、社会における事業継続性に赤信号が点ることになってしまいます。

 ただ、説明責任は、何も不祥事などを起こしたときだけに求められるものではありません。新商品開発やM&Aに失敗したり、赤字決算や無配に転落すれば、トップは説明責任だけでなく、「経営責任」まで問われることもあります(辞任にまで追い込まれるかどうかはケースバイケースですが)。

 企業不祥事が起きた時点に限らず、企業経営には継続的に4つの責任が求められています。即ち、「法的責任」、「道義的責任」、「社会的責任」、そして「説明責任」です。前の3つは重複する部分もありますが、同一平面上で並列的に相互対照して見ることができます。

 その上で、4つ目の説明責任の特異さは、前の3つの責任すべてに帰属し、また、3つすべての”責任の明確化”を主導する役割と機能を担っている点にあります。

 近年のコンプライアンス意識の拡大と浸透は、1つ目の「法的責任」から出発して、今や2つ目の「道義的責任」まで、そのカバレッジに含むに至ったことは、コンプライアンス経営の意味することからも理解されるところです。また、3つ目の「社会的責任」については、不祥事の有無に関係なくCSRとしても捉えられますので、後段で詳述します。

 ところで、この3つ目までは、accountabilityに対して、各方面からの多様な付託に応えるresponsibilityと見ることもできます。

政官報の「説明責任」

 さて、4つ目の「説明責任」ですが、健全経営の観点からすれば、不祥事などはもっての外であって、「そもそも説明ができないようなことはするな」という心理的牽制があってしかるべきなのです。それでも起こってしまうために、結局「説明責任が十分でない」とか、「説明責任を果たしたとは言い切れない」などと批判されてしまうのです。

 アカウンタビリティの訳語として「説明責任」ではインパクトが弱いので、「説明償責」という言葉を当てたらどうかとの提言が、以前なされたことがありました。個人的には肯首できる意見です。償責とは、中国の古典で使われている言葉で、「責任を償い果たす」という意味だそうです。その言葉に説明を付けたわけですから、求められる厳しさのニュアンスが格段に上がると考えられます。

 何れにしろ、この「説明責任」不足を指摘される対象は、拡がっています。企業トップに限らず、政治家や官僚もその例に漏れません。ただ、政治家は余程のスキャンダルに巻き込まれない限りは、次の選挙までは”説明責任の不十分さ”が原因で、その地位を追われることはまずありません(現職大臣の失言・暴言は除きます)。

 さらに、官僚の場合は、その匿名性ゆえ、そもそも説明責任が云々されることすらありません。中央省庁のスキャンダルが、トップである事務次官の辞任にまで発展するケースもないわけではありませんが、こと官の説明責任に関する追求の甘さは、民間企業トップに対するものと比べて、いかにもアンバランスな印象を与えます。

 先程、メスメディアの使命(社会の木鐸のことです)について述べましたが、ここでは逆に、情報提供元の中央官僚によるメディアコントロールの罠に、あまりに無防備な現在のマスメディアの姿が浮き上がってきます。このような状況が続くようだと、今度はマスメディア側が、社会から説明責任を問われる立場になるでしょう。

 「そんなことはあり得ない」などと高を括っていると、結局はメディアの信頼性の問題に行き着きますので、新聞の発行部数の減少やテレビの視聴率の低下に歯止めをかけることは難しくなるでしょう。その意味では、ネットメディアの台頭もあり、マスメディアも自らの「説明責任」から逃れることはできない時代になってきたとの認識が必要です。

深化する「社会的責任」とトップの覚悟

 今や、企業のCSR活動は特別なことではなくなりました。多くの企業が自らの「社会的責任」を自覚しています。従来のBOPビジネス(BaseofthePyramidBusiness)に代表される貧困層へのサポートや、植林などの環境問題への取り組み、さらに本業に関連するCSRビジネスなど、それぞれが大きな役割・意義を有し、素晴らしい活動といえます。

 また、公益資本主義という言葉も出始めています。個々の企業がそれに資することは、CSR全体の幅を拡げることでしょう。

 本来CSRを標榜している企業が不祥事を起こすということになれば、それは社会貢献とは反対の立場に立つことを意味し、むしろ「社会的無責任」を遂行しているようなものです。したがって、各企業はあえてCSRを強調しなくても、その一歩手前のコンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスなどの諸施策によって自らの足元を固め、またそれら諸施策のあり様自体も、常に確かめる地道な経営努力が必要なのです。

 そこには、「雇用責任」や「納税責任」は、当然含まれておりますし、それらがすべて揃った上での「社会的責任」であることを深く認識すべきです。

 また、不祥事発生時だけではありませんが、企業が減資となれば有限責任の範囲とはいえ、株主は「株主責任」を負わなければなりません。同様に、今後は他のステークホルダーの応分の責任の取り方という議論も出てくるかもしれません。

 しかし、何よりも企業トップの責任は、常に”重い”と言わざるを得ません。トップには、”問われる責任”だけを意識しすぎることなく、”果たす責任”の覚悟をこそ、強く持ってほしいものです。

 グローバリズムが進展してきたなかで、個々人の「自己責任」が強く打ち出されてきました。各企業の社員も同様です。そのなかで、企業トップが不祥事などを起こした後で、トカゲの尻尾切り的な責任の取り方しかしない、そのような責任回避をすることは、他者に自己責任を強いている分、より許されることではありません。

 最後に、責任に関連して、再度覚悟にも触れておきます。覚悟とは優れてリーダーシップに付随する資質であります。だからこそ、国民や社員は、そのリーダーから覚悟を問われることに納得し、また、国民や社員は自分自身にも、そして、もちろん自分たちのリーダーに対しても覚悟を問うことができるのです。このような「相互責任」の”引き受けの覚悟”が、信頼と絆を形成していくからこそ、各人が「責任」を全うすることができるのです。

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