情報セキュリティ 関連レポート

“ポスト真実”時代の企業広報(4)~フェイクニュースの構造(2)~(2017.8)

2017.08.30

フェイクニュースのリピート性

 これまでにも何度となく言及してきたように、フェイクニュース自体の起源は古い。昔から政争や戦争においては、謀略・計略やデマは不可欠な要素であったから、フェイクニュースをその延長線上に捉えることはできる。

 やがて登場したマスメディアは、その誕生時から報道媒体であると同時に広告媒体であることが運命付けられていたわけであり、自由主義経済下では発行部数や視聴率などの商業主義的指標が高く掲げられざるを得ない。そこでは”売れる媒体”であるとともに、保守派・リベラル派といったスタンス、即ち論調の違いを選択することができ、時の権力(政府)に対して、シンパセティックか批判的かの立場を鮮明にすることができる。

 したがって、その両者間で論争は起きるし、相手を攻撃する際にフェイクが紛れ込むことがある。それを紛れ込ませる行為が意図的・意識的か、偶発的・無意識かが問題となりそうであるが、実はどちらであっても、感情の支配を免れていない。

 意図や意識の有無に関わらず、感情に支配されているからこそ、意識も無意識も根こそぎ動員されてしまっているのである。商業主義的メディアとの言い方に若干の違和感が漂うとしても、新聞社もテレビ局も慈善福祉団体ではなく、ビジネスを展開している以上、すべてが商業メディアなのである。

 新聞王とかメディア王などの呼称が存在すること自体、その経営者や所有者の商業的成功を見事に物語っている。追々、論述していくことになるが、メディアリテラシーとはこれらメディアの成立要件や構造的特徴からも考えていくべきものである。

 さて、保守かリベラルかといったことは、そのメディアの商業的成功の条件ではなく(ケースバイケースでどちらでもよい)、世の中の趨勢や流行、世論の誘導や喚起に上手く合致させることができたかどうかで決まる。その(訴求・操作としての)対象はもちろん大衆であり、彼らの心情、即ち感情に直接訴えかけ、同意を得ることによって成就する。

 それまで一定の節度によって保たれていた感情が一旦その制約から解き放たれると、纏っていた衣をはぎ取られたように、剥き出しの本音が露出し、奔流のように流れ出す。

 その一形態がヘイトスピーチやフェイクニュースであることは疑い得ない。

 このような状況を現出させた直接の原因がポピュリスティックな政策を推進した政権与党にあるのか、それに協力したメディアにあるのかは、議論の分かれるところである。

 おそらく”共犯関係”の場合も少なくないはずだ。したがって、メディアが今さら、したり顔でヘイトスピーチ批判を展開しても、表面的にしか受け止められず、いま一つ説得力に欠けるのは仕方ないことか。これはマスメディア自身の信頼性に関わる問題である。

 いずれにしても、特定政党による一強支配体制が確立した政治状況下では、フェイクニュースは一定の役割を終えていることだろう。但し、それはあくまでも”一定”であって、支配体制の総仕上げとして完成するまでフェイクニュースは連続的に続く。

 一方、ヘイトスピーチは国内の反対勢力の監視と弾圧のために、対外的にはショービニズムとして国内の求心力を高め、自国ないしは自国民の優越感を強調するために利用されているだろう。その段階では、フェイクニュースの実態は暴力的といえる程、より先鋭化し、でっちあげや捏造へと化していき、その支配体制は限りなく全体主義もしくはファシズムに近づいていく。そして、その活動は当該支配体制維持のために、自らの運動を止めることができず、崩壊するまで半永続的にならざるを得ないのである。

 これは世界史から見ても自明のことである。それでは、自由主義経済体制以外でのメディアの状況はどうであろうか。社会主義国家や一部の専制国家では、経済体制が市場主義型経済の形態を採っていても、メディアが支配者や政府を批判することはあり得ない。その意味では前段の全体主義国家と大きな違いは見られない。

 さて、全体主義国家におけるフェイクニュースは、外部の仮想敵と内部の反対派に対して、自己の正当性アピールと相手の間違いや狡猾さ・横暴さを指弾・強調するために、本来は効果的に発信されるものだが、それがファクトニュースではなく、フェイクニュースである(突っ込みどころも少なくない)だけに、フェイクニュース合戦、その応酬・泥仕合になりやすい。

 ただ、この前段階にファクトニュースの応酬もあったと仮定して、その過程を考察することもリテラシーにとっては重要である。今日的問題は、この対立構図は全体主義国家が仮想敵と見なしている民主主義国家、あるいは民主主義社会において、より鮮明に社会の分断・分裂が一気に顕在化してきていることにある。

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『1984年』の再現?

 『1984年』でオーウェルが描いた世界は、教条的なイングソックの下、止めどもなく先鋭化し蔓延した全体主義・監視社会であった。そこではフェイクニュース自体が党の方針(歴史の改竄)であるため、読者は究極の閉塞感を突き付けられた。

 これを現在の世界、特に民主主義国家に当て嵌めることには、当然のことながら無理がある。ハンナ・アレントの分析に従い、大衆社会の成立を経て、全体主義が到来するのであれば、現時点での大衆社会の分断・分裂はどのように解釈すれば良いのだろうか。

 今や、日本をはじめ主要各国においては、かつてのような分厚い中間層は解体され、没落してしまった。一時、声高に喧伝されたトリクルダウン現象など実際には起きなかったし、貧富の格差はますます拡がった。そこで被治者としての大衆には不満と閉塞感と怒りが増幅した。

 ただ、現在の社会の分断現象はピラミッド構造の平行の分断のみならず、垂直(右派左派という単純な区分ではない)の分断にまで及んでいる(但し、後者はピラミッド上層部の寡頭勢力には明確に線引きされない)。つまり、”ルサンチマンの逆襲”の対象が複数に拡散しているのである。分断された後に分裂するのであるから、多くのクラスターとして分散しているのである。これがネット上では、フィルターバブル・エコーチェンバー・コクーン化をもたらし、セレンディピティを阻害していることは、キャス・サンスティーンやイーライ・パリサーらの指摘の通りである。

 しかしながら、それら数多くの”タコツボ化”されたネット上に散在する感情は、サイバーカスケードにより、再び大きな連合を形成する(緩やかな連合であっても、激情が共有されている)。これが現代では、一つの一方的な巨大勢力に集合するのではなく、ほぼ拮抗する二大勢力に分断される。思えば、Brexitも米国大統領選挙も、賛否や支持・不支持が拮抗していた。それは現時点でもあまり変わらないのではないか。ともに多数派を構成できないため、相手の発信情報をフェイクニュースと決めつけて攻撃し、また自らもフェイクニュースを駆使するといった相互に愚の循環に陥っている。

 特に米国社会の分断は、白人至上主義団体やネオナチ運動を巡る対立構造に見られるように、極めて深刻な状況を呈している。話を再び『1984年』に戻すと、全体主義国家でなくても、すでに分断されたグループが、実は統合されていて、両者一体として二重思考を具現化しているとも受け取れる。何故なら、一方的に(全主張に亘って)正しいとか、間違っているなどということは、全能の神でない限りはあり得ないことだからである。

 さらにそれぞれのグループ内部においても、フェイクとファクトが二重思考として存在し通用してしまっているようにも見える。つまり、ビッグブラザーが二人いる(ことになっている)ということだ。しかしながら、テレスクリーンをインターネットに置き換え、諜報機関による各種インテリジェンス活動(オシント・ヒューミント・シギント・イミント等)を日常的なものと諦観してしまえば、やはりビッグブラザーは架空であっても一人なのかもしれない。

 いずれにしても、国家の諜報活動の有無を論ずること自体がフェイクニュースの起点になっている。さらに、それがウィキリークスのジュリアン・アサンジや元CIA職員のエドワード・スノーデンによる機密情報の流出として現出し、各国当局にとっては紛れもなく”不都合な事実”になってしまっている。今後、サイバー攻撃を含めた情報漏洩、プライバシー情報満載のビッグデータの流出などが起きれば、また醜悪なフェ-クニュース合戦が展開され、何れも相手方に責を帰するデジャブなバトルが繰り返されることになるのだろうが、そんなものにいつまでも付き合っているわけにはいかない。

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