情報セキュリティ 関連レポート

“ポスト真実”時代の企業広報(8)~ハイパーインフレ化するフェイクニュース~(2018.1)

2018.01.31

フェイクニュースの入れ子構造

 これまでフェイクニュースには多種多様な悪意が忍び込み、それらが複雑に絡み合っている実態を見てきた。リテラシーを高めることに越したことはない。そのための各種情報の当たり方・接し方についても論じてきた。異なる多様なファクトチェックの諸アプローチが有機的に結合され、また蓄積されることによって、社会的なリテラシーレベルが強固になるのならば、歓迎すべきことではある。

 ただ、このリテラシーの向かう先はファクトチェックと同様、あらゆる方角であるため、相乗効果並みの相殺効果をも有してしまっている。ボットによる大量拡散がなされたとしてもである(なされたが故にとも言える)。フェイクニュースの”効果測定”の話に戻るが、「ローマ法王、トランプ支持」の報に接して、どれだけの米国有権者がトランプ氏に票を投じたのだろうか。厳密に言えば、そのニュースに接して、トランプ支持を固めた人はどれくらいいたのだろうか

 これらの人々は「ローマ法王、ヒラリー支持」に接したわけではないので、バックファイアー効果にとりこまれたわけではない。どちらのパターンのフェイクニュースに接しようと、どちらにも接しまいと関係なく、トランプに投じたと思われる。

 逆に、「ローマ法王、トランプ支持」の報に接して、どれだけの人が投票行動を変えたのだろうか。つまり、「米国民ではないが、ローマ法王が支持するなら、トランプに入れよう」と思った人が、果してどれだけいたかということである。また、この”フェイクニュース”は、むしろヒラリー支持派に強いバックファイアー効果を及ぼしたはずであるが、その話題はついぞ聞かない。

 トランプ支持派の態度が感情優先で、いくら理論的な反論をしても、バックファイアー効果に囚われていると批判しているのは、主にメインストリームメディア(既存大手メディア)である。それに対して、ツイッターで必死に反論しているのが、トランプ大統領という構図が続いている。現在は、ロシアゲートでの同大統領への最後の追い込みが掛けられているが、どちらに転ぶか予断を許さない。この問題の関連ニュースでは、「・・・に関しロシアの関与が噂されている」とか、「ロシアの介入があったとされる・・・問題」などの推測表現が圧倒的に多いことに留意が必要である。いずれにしても、ともにフェイクニュースの様相を帯びているだけに、決着は後味の悪いものになるだろう。。

 ここでは、そもそも各国でメインストリームメディアが何故信頼を喪失してきたのかの振り返りが必要である。ブッシュ父子政権下で実施された中東への介入・戦争は、すべて事実ではない、根拠のない情報(イラク兵による虐殺や大量破壊兵器の保有等)に基づいて実行されたものであった。それらをフェイクニュースという結果として撒き散らしたのが、まさにメインストリームメディア各社であった。トランプ氏と彼の支持者の怒りはそこを起点としているにも関わらず、大手メディア側は挙ってヒラリー支持を打ち出した。
湾岸戦争やイラク戦争や”アラブの春”への介入などに対する反省はおろか、説明責任も全く果していないのである。

 また、ロシアに対する批判的論調に関して言えば、ドイツ大手紙の一つ、フランクフルター・アルゲマイネの元編集長ウドー・ウルフコッテ氏がCIAに買収され、ロシアを敵視する宣伝記事を数多く書かされたことを著作で証言している(「買収されたジャーナリスト」)。同氏によれば、同様に買収されたジャーナリストは、ドイツ国内外に複数おり、彼のような”裏切り者”の身辺には、絶えず危険が迫っているという。フェイクニュースを考える上で、ジャーナリストの不審死には目を光らせておくべきであろう。

 ところで、トランプ大統領を積極的に支持しているわけではない、一部の米国の良識派(もちろんジャパンハンドラーではない)は、この辺りの事情をよく把握しており、米国政治の専門家からは、ファクトチェックの原点ともされる「ポリティカルコレクトネス」自体が、実は”偽善”であるとの認識が定着しているとの指摘も聞かれる

 つまり、多くのトランプ支持派の米国民も同様に、メインストリームメディアの言っていることに何らかのいかがわしさを直感的に感じ取っているということなのである。大手メディアが大統領選後も執拗に現職大統領批判を展開するのは、米国内での覇権争いが今なお続いていることの証左である。フェイクニュース論争の根底にあるこれらの事情を理解しないと、”ポスト真実”の本当の意味するところが見えてこない。

 これは、SNSによるフェイクニュースの拡散がトランプ陣営に有利に作用し、大手メディアが反トランプ色を強めるという単純な構図として解釈すれば済む、という矮小な問題に収まらない。反権力志向と見なされた米国のジャーナリズムが何時からかエリート化し、”リベラルバイアス”が指摘されていた時期に、常識的で”内向きな”米国民の感性に訴えた保守論調が台頭してきた経緯も見なければならない。

 さらに、それがFOX対CNNの場外乱闘に転じているのだとしても、それを悲観する必要はない。感情であれ、理性であれ、また本音であれ、建前であれ、互いに批判し合い、過ちを修正し、相互補完して、問題解決に導くのであれば、低レベルのフェイクニュース合戦は避けられるはずだからである。ただ現実としては、議論の途中で話題を替えたり、論点をズラし始めた方が、不都合な事実を回避するためにフェイクの誘惑に駆られることは容易に理解できよう。ここはフェイクニュースの見極めの大きな契機となり得る

 米国内の移民政策や民族差別の問題に関しては、白人の若者の失業率が増大しないよう、さらなるアファーマティブ・アクションの進化と深化に期待するところ大である。憎しみの連鎖による社会の分断が大問題となっているが、よく引き合いに出される1%の富裕層と99%の貧困層というような構図の中で進展する、憎しみと報復の連鎖が何を意味するのか、その過程のなかで”明白な”(「明白に見えなくても、明白である」という意味において)フェイクニュースがどのような機能を果すのかをよくよく考えなければならない。
特に難民・移民問題は欧州の現実も踏まえて、これ以上、アラブ諸国の内政問題に欧米諸国が不当に介入しないことが不可欠である。

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金太郎飴化にもなるフェイクニュース

 一方、目を日本に転じてみよう。政治問題でエンドレスの様相を呈しているのが、従軍慰安婦問題である。日韓政府間の「慰安婦問題日韓合意」に対して、文在寅大統領は「この合意で慰安婦問題は解決できない」などとする談話を出した。国家間の外交交渉を一体どう考えているのか、全くもって不可解としか言いようがない。政権が替わるたびに問題が蒸し返されるのだから、「最終的かつ不可逆的に」との合意の文言も空しく響くばかりだ。

 韓国国民の感情の発露は、ポピュリズムにおける大衆の感情に訴える政治手法とは質的に異なるので、単純比較ができない。いわゆる”恨(はん)”の感情に根差し、一部の勢力がそれをまた利用しようする思惑も絡んでいるため、一筋縄にはいかないのである。
 しかし、さすがに今回は韓国の主要紙が、このような態度の豹変では、外交慣例を無視することになり、国際社会からの韓国への信頼を低下させてしまうとの危惧を表明している。日米韓だけで見ても、政府‐メディア‐世論の関係性が微妙に違うところが興味深い。

 「慰安婦問題」の原点となったともいわれる朝日新聞の報道は、吉田清治氏の証言(済州島での慰安婦狩り)に依っていたわけだが、これらはすべて捏造であったことが、今では明らかにされている。また、一部吉田証言も引用している、国連人権委員会の決議に基づき提出された「クマラスワミ報告」に対しても、秦郁彦氏らから数多くの事実誤認や歪曲が指摘されているのは周知の通りだ。

従軍慰安婦という存在が、人類史上、決して珍しいことではなかったとの厳然たる事実は一旦脇に措くとしても、人道上・人権上非常に大きな問題を有していることには異論の余地はないだろう。つまり、総論においては、ほぼ反対意見はないと思われる。日本政府の主張は各論に関することである。しかしながら、この各論の議論がいつも噛み合わない。
再び、総論の土俵に持ち込まれてしまうことが繰り返されている。つまり、各論においてはフェイクの要素が多分に入り込みやすいのだ。

 この問題に関しては、日本が過去の過ちを素直に認め、謝罪・賠償したこと、そして何よりも日韓政府で合意文書が取り交わされたことが大前提でなければならない。慰安婦像が第三国において次々と建立されるのは、どう考えてみても悪意でしかない。これまでの日本政府の国際広報活動が不十分であったことは否定できないが、国内の代表的メディアが、保守であれ、リベラルであれ、国益を損なうような報道をすることが許されるはずがない。論拠が不明だったり、改竄されたものなら尚更である。

 日韓両間の禍根が何時までも消えないのでは、両国の国益と両国民の友好をともに損なうだけである。それを望む一部の勢力の意図があるのならば、冷静に見破っていかなければならない。ここは複数のファクトチェックも慎重に検証しながら、やはりリテラシー力と洞察力を上げていくしかない。

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フェイクニュースに対するもう一つの立ち位置

 ファクトチェックやリテラシーが不完全ながらも重要なカギとなるのは、何らかの意図・悪意を持ったフェイクニュースに接した場合であるが、フェイクニュース自体にはもう一つの側面がる。例えば、幾度となく言及しているバックファイアー効果であるが、これは、認知不協和を解消するために、理論よりも感情を優先させて、同時に確証バイアスと正常性バイアスも動員されてしまったと解するのが、一般的であろうと思われる。
ただ、そのバイアスが結果として、フェイクに振れたのか、トゥルースに振れたのかは、実は不明なのである。特に、趣味嗜好のマタ-・イシューに関しては、何をもって真実であるかとはいわく言い難いものである。

 実は、事象や事件に関しても、同様のことが言えるのかもしれないのである。つまり、真実は人の数だけあるのである。それ自体がバイアスであり、思い込みや固有の信条・信念、あるいは、あやふやな記憶などによるものだと言ってしまえば、それまでなのだが、要は、真実は白か黒かだけではなく、現実的に多様なグレーのグラデュエーション(事実群)によって構成されていることが多いということである。また、ファクト(事実)はトゥルース(真実)の一部であり、パズルの1ピースでもある。1ピースでしかないものの、それが欠けると真実というパズルは完成しないとも言える。

グレーゾーンは曖昧さの象徴であり、本音と建前の双方を包含している。グレーゾーンは広範かつ多様であり、また多層複雑な構造を有している。その反映が、まさに現実であり、現実もまた、そのグレーゾーンに吸収されているのだ。つまり、フェイクかトゥルースかは、正邪・善悪に比例しない面があるのである。要は、バランスと調和と幸福の世界に再帰しているから、不要な争いや論争にはならない。フェイクニュースの浸入は、この調和とバランスを乱す原因であり、フェイクニュースの氾濫は調和とバランスが乱された結果である。その意味では、ある特定のファクトやトゥルースの膨張や暴走は、多様性とバランスを乱すものとして阻止する必要がある。

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日本のメインストリームの問題点

 以上、概括したように、フェイクニュースは背景・発現・拡散のいずれの段階でも、複雑な入れ子構造を成している。実のところ、そのエンドレスさに付き合う必要も、振り回される必要もないのである。フェイクニュースであっても、ファクトニュースであっても、ニュースそれ自体に踊らされない、一喜一憂しない基本スタンスが何よりも肝要である。
たかがフェイクニュース、されどフェイクニュース、もう一度戻って、たかがフェイクニュースなのである(フェイクである以上は)。

 そのようなリスク感覚と判定幅を持ってさえいれば、少なくともフェイクニュースの跋扈は阻止できるかもしれない。もちろん、根絶はできないだろうが、スポットライトが当たらないところへ追い遣ることはできるのではないか。同時に人々が、趣味・嗜好/思考・思想ともに、お手軽さを忌避する生き方を選択する覚悟が要る。
真偽不明なニュースに踊らされるのは、極めて自己責任・生き方の問題に収束されてこざるを得ない。したがって、リテラシーはそれに付随するものと考えた方が現実的かもしれない。

 さて、米国のメインストリームメディアの問題は、トランプ大統領を巡る立ち位置によって分かりやすい構図になっている。マスメディアへの信頼・信認が低下しているのは、資本主義陣営においては各国共通課題である。どこの国でも視聴率と発行部数の低下は止まらない。ことフェイクニュースへの関与形態でいえば、既存マスメディアとSNSなどのネットニュースとでは、外観・内実・質感ともに異なる。片方によるフェイクの指摘が、指摘者の信任に結び付いていかないのである。フェイクにフェイクで反論すれば、ともにきりもみ状態で落下していくだけだ。これは今後すべてのメディアが抱えていかなければならない宿命であろう。

 慰安婦問題で若干触れたが、日本のメインストリームメディアの問題はどのように解釈すれば良いだろうか。嫌な言葉だが、何故”マスゴミ”などと蔑称されるのだろうか。
左右の論調の違いは別として、新聞・テレビ業界が、エリート視され、華やかな世界として、表面的にもて囃されていた裏で、多くの問題が放置され、先送りにされてきた。
思いつくまま挙げてみても、押し紙・残紙問題、再販価格制度、消費税特例問題、記者クラブ問題、政権との距離感、スポンサーへの忖度、ヤラセ問題、格安電波使用料問題、そして極めつきはこれらの問題提起も含めた”報道しない自由”という勝手なスタンスである。

 つまり、自らが抱えた多くのフェイク的要素には頬かぶりをして、知らぬ存ぜぬを決め込む態度である。ネット時代を迎えて、そのような前時代的なパフォーマンスが維持できるはずもない。ジャーナリズムとして民間企業・政治家・官僚の不正を糺す役割を有している以上、自らの問題を棚に上げることは、最早許されない。フェイクニュースを論じるに当たっても、自らがファクトチェックの先頭に立とうという意気込みを持つにしても同じことだ。プラットフォーム事業者の”メディア化”の自覚を求めるにしても、自らの矜持を持って、説得力を具備していかなければ、残念ながら話は進まない。

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