リスク・フォーカスレポート

“ポスト真実”時代の企業広報(5)~リテラシーとファクトチェック(1)~(2017.9)

2017.09.26
印刷

リテラシーの起点

 これまで幾度となく述べてきたように、フェイクニュースの構造と様相は極めて複雑多様である。それはフェイクニュースそのものだけでなく、フェイクニュースの作成者・発信元、コンテンツ、意図や動機、流通・拡散過程、ターゲットなども複雑多様だからである。本稿の第3回では、そのうち特に「意図と動機」に着目し、それが有する”悪意”を所与のものとして、以下の4つの参画者に分類した。

  • (1)政敵・論敵に対する作成者の意図・動機
  • (2)単なる金儲けという作成者の意図・動機
  • (3)面白半分(本気半分)の便乗的情報中継・拡散者の意図・動機
  • (4)ターゲットたる情報受信者の感情先行型の受容意図・動機

 また、この4つはトランプ派と反トランプ派、あるいは、EU離脱派と残留派の場合でも、双方に生息しているわけだから、様相はさらに複雑化しているが、むしろ見事に分断されてもいる(ただ、(2)のグループは政治的信念を持たなければ、両派間の行き来は自由とはいえる)。さらに、各グループのそれぞれの想い(ルサンチマンに転じている場合もある)は、過去・現在・未来を展望している。つまり、感情先行型に至った経緯を辿ることもできる(特に(1)と(4))。

 このように見てくると、ある特定のマターやイシューの賛成派と反対派は、それぞれに(1)~(4)を自派内部に抱え、また意図・動機の時間軸の変遷を想像できる。これを単純に性善説・性悪説で論じ切れるかどうか、意見の分かれるところでもあろう。まさにここにフェイクニュースに対するリテラシーが重層的・複層的にならざるを得ない面がある。

 このリテラシーは演繹と帰納の両方を求められるだけでなく、両者の統合をも要請される。そして、このリテラシーの体現者は、当該のマターやイシューに対して、中立的立場を強要・強制されるわけではないが、彼なりの止揚は実現していなければならない。

 これはファクトチェッカーの要件や信頼にも関わってくる問題でもあり、非常に困難を極めるだろう。また、メディアの中立についていえば、日本では公正中立を謳い、米国では支持政党を明確に表明している。これはどちらの場合でも、フェイクニュースの温床にはならないと断言できない性格を抱えていることを図らずも露呈していることに留意が必要である。

 先に触れた性善説・性悪説については若干誤解があるようで、性善説とは「人間は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」ことで、性悪説とは「人間は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というのが本意らしい。後天的な後退(性善説)と後天的な成長(性悪説)のどちらであっても、どの時点でなりすましや匿名性が横行するフェイクニュース発生の契機にはなり得る。勝者による歴史の書き換えは、一旦措いておくとしても、勢力が拮抗している対立する二者間や、単なる金銭動機の者たちに善行はもとより、道徳や倫理、常識や良識を期待すること自体が無理な相談ということだろう。

ページ先頭へ

陰謀論との関係

 さて、ここでフェイクニュースと陰謀論との関係からもリテラシーを考察してみる。陰謀論というと、多くの方は、”都市伝説”や”トンデモ話”として一蹴するか、眉をひそめるかどちらかだろう。もちろん、そういった類のものが多いことも確かだ。しかし、全部が全部そうとは言い切れない。まず、最初にこの「陰謀論」という言葉を使用したのは誰かを考えたい。それは、(a)陰謀を仕掛けた方か、(b).陰謀を仕掛けられた方か、(c).それとも第三者であろうか。答えは(a)であり、それは陰謀論の”常連”ともいうべきCIAであることは良く知られている。

 1963年11月22日にテキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件を検証するため、ジョンソン大統領により設置された「ウォーレン委員会」は、調査報告書の最終的な結論として、オズワルド単独犯行説を断定した。しかし、「ウォーレン委員会報告書」では真実は語られておらず、「真犯人は別にいる」とする”陰謀説”が後を絶たないことはご承知の通りである。つまり、JFK暗殺自体とその幕引きを「陰謀論」とする見方である。

 ところが、オズワルド単独犯行説に立脚する同報告書に対する批判の方を「陰謀論」と決め付け、斥けたのがCIAと云われている。

 「ウォーレン委員会報告」に対して発せられた(疑義)の方に”疑義”があるとの反撃である。この(疑義)の信用を傷つけるためのテクニックとして”疑義”を使用したCIAが「陰謀論」(conspiracy theory)という言葉を、政治用語に持ち込んだと云われている(実はそれ自体が陰謀そのものなのだが)。この互いに相手を”陰謀論呼ばわり”する構図には、二つのフェイクニューズが一対となって合体し、きりもみ状態での落下している様相が描かれている。

 こうして陰謀論争の継続は、実像・実態を遠ざけ、真相に迫ることを阻んでいく機能を果している。これは各国の情報公開制度の不備を突かれた面も否めず、各権力・権威セクターに要求される説明責任とは対極に位置するものだ。いずれにしろ、これ以来「陰謀論」という言葉は、本当の言説の信用を傷つけ、偽りの説明の方を”ファクト”と信じ込ませるために活用された経緯を見て取れるのである。

 陰謀論争にさえ持ち込んでしまえば、どちらが本当なのかが分からなくなるのだから、仕掛けた側からすれば、それで目的達成というわけだ。そのことによって、最終的に得をするのはどちらか、ここを探求するのが陰謀論におけるリテラシー視点となる。

 先の「ウォーレン委員会報告」における(疑義)と”疑義”の間では、互いに相手をフェイクニュース扱いするわけであるから、現代史における”ポスト真実時代”の先駆けというか、土壌を作ったものと位置付けることができる。この(疑義)と”疑義”を現時点のトランプ派と反トランプ派に置き換えれば、フェイクニュースを”ファクトニュースっぽく”扱ってくれるのが、前者がSNS、後者が既存メディアと解釈することもできる。

 冒頭にフェイクニュースを「意図と動機」から4分類したが、敢えて、メディアの種類には言及しなかった。今日的なフェイクニュースの主役がSNSであることは論を俟たないからだ。ただ、反トランプ派の大半が既存メディアであるという”事実”は、前回(第4回)で述べた、既存メディアの成立要件や構造的特徴(保守・リベラル問わず、経営的成功を目指す商業メディアであること)も否応なくメディアリテラシーの焦点にならざるを得ない必然性を明らかにしてくれる。

 話は少し逸れるが、現在の米国・北朝朝間の威勢の良い、危険な相互批判の応酬は、その言質の裏側(メッセージ性)をどう読み取るべきかがリテラシーとなることを付け加えておきたい。

ページ先頭へ

リテラシー対象の分類と追加すべきリテラシー要件

 さて、改めてリテラシーにはどのような種類があるのか、重複・同義・近接も含めて主たるもの(しかしながら、筆者の造語を含む)を挙げてみよう。

  • 1.情報リテラシー
  • 2.コンピューターリテラシー
  • 3.ITリテラシー
  • 4.ネットリテラシー
  • 5.サイバーリテラシー
  • 6.メディアリテラシー
  • 7.ニュースリテラシー
  • 8.(メディアの)ビジネスモデルリテラシー(したがって、プラットフォームを含む)
  • 9.フェイクニュースリテラシー
  • 10.科学リテラシー
  • 11.統計リテラシー
  • 12.情報元(第1次情報)リテラシー
  • 13.拡散者(利用者)リテラシー
  • 14.情報操作リテラシー
  • 15.陰謀論リテラシー
  • 16.ファクトチェック元(者)リテラシー
  • 17.人間心理リテラシー(動機と感情)
  • 18.歴史リテラシー

 無理やりの造語を含んでいるため、違和感を持たれる方もおられるだろうが、リテラシーの対象となる客体(個人・組織・モノ・コンテンツ・時間・空間)の動態や時系列、相互補完性・連関性を統合して、理解・解釈するためには、カバーすべき範囲と捉えるべきである。同時に、この1.~18.の対象分野を評価する主体のリテラシー力の差異が存在している。そのため、世界や社会の現象がより複雑になるのは仕方ないことである。それだからこそ、リテラシーを発揮すべき主体側の態度・対応・知性が問われてくるのである。

 そこで、リテラシーの語源にも触れておく必要があるだろう。リテラシーの原義は、今や広く知られるところの「読み書き能力」である。それが「読み解き能力」や「理解力」、「活用力」へと伸張し、さらにそのために必要な知識と能力自体を具備している状態とまで解されるようになった。その獲得された能力を用いて、必要な情報の選別・分析・活用ができれば、リテラシーが高いと評されることになる。ただ、これだけでもまだ駄目で、多様な、あるいは対立する言説に意識的に触れることが極めて重要なのである。
それに加えて、これまでそれらの能力にラインアップされてこなかった、モラル・マナー・エチケットなどを全面的に導入しなければならない。現在はそのような事態だ。

 前記の用語を道徳・倫理・常識・良識と日本語に置き換えても良いのだが、全てが最早リテラシーに不可欠なものとして捉える必要がある。これはリテラシーという機能を媒介して対置する、「主体」と「客体」の双方に問われていることは言うまでもない。
主体には、情報の真偽・正誤・善悪の判断(judgement)が求められるのであり、結局能力の問題に回帰する。そして、判断直前の評価(evaluation/assessment/estimation等々)においては、客観性・冷静さ・合理性が欠かせない。これも能力だ。

 また、上述した「必要な情報の選別・分析・活用」が重要なのであるが、情報の収集に際してはフィルターバブルが、選別に際してはエコーチェンバーが邪魔をする。それ以前に、選別・分析・活用の各段階(3段階とも前に、本来”正しい”が付されなければならない)で各種のバイアスが侵入したり、感情に支配されたままであったりという厄介な問題に直面する。これらの残存問題については、追って詳述したい。

 さて、一方の客体の方であるが、「正確で有用な情報の発信(伝達)能力」が求められていることは、これまた言うまでもない。但し、主体と同様、強い倫理観と常識力が欠かせないのであって、そうでなければリテラシーの要件は満たさないのである。つまり、理想論をいえば、世界や社会はリテラシー体系に包まれていなければならないのである。

ページ先頭へ

Back to Top