SPNの眼

“識”に再帰する危機管理(2012.11)

2012.11.07
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 危機管理というと、何か難しい言葉であり、概念であるかのように思われがちですが、その根幹は至って、単純かつ明快です。危機を解決し、克服すること、すなわち危機管理が難しいとするならば、それは本来単純なものを複雑化させる、何か別の要因が働いていると考えられます。

 何故、危機管理が単純かと言いますと、潜在的なリスクも含めた危機的状況・局面の判断や対応に当たっては、普段、日常会話でよく使われる”識”で終わる、いろいろな二字熟語を心に深く刻み付け、その指し示すところを素直に受け止め、判断し実行すれば良いからなのです。

 たとえば、その一つが”常識”です。日常的には、「君の常識に任せるよ」とか「あいつは常識のない奴だ」などがよく使われます。それが、「彼はきわめて常識人だ」となると、毀誉褒貶相半ばのニュアンスが含意されてきます。つまり、「常識人で素晴らしい」という賞賛と「常識の範囲を超え(られ)ない凡人」という侮蔑の意味合いが、使い分けられるか、拮抗しています。

 この言葉が、危機管理分野において、何故重要な感慨をもって語られるようになったかというと、企業不祥事やスキャンダルが起こる度に聞かされる「会社の常識と社会の常識が乖離していた」という台詞のためです。この言葉の裏には「この二つの常識を乖離させないようにしなければならない」との意味合いが込められており、いわば不祥事を生じさせた当事者の反省の弁となっているからです。否、反省の弁となっていたはずなのです。

 ところが、このコメントは何だか不祥事企業の言い訳のための常套句のようになってしまいました。先行した過去の不祥事事例を、如何にして「他山の石」として見るべきかを怠ってきたことを自ら証明しているようなものです。

 また、ここで云う会社の”常識”とは社会の”非常識”として、結果的には了解されます。企業が「社会の常識」に反することを行っていれば、それは不祥事も起こるでしょう。

 組織内で、”常識”を堅持させない、あるいは変質させてしまうような妙な圧力が感じられるときは、要注意です。組織内の論理が歪みはじめ、”常識”を逸脱したときに、その流れを食い止められなくなると、組織内の至るところで病理現象となって現われてきます。

 常に、「社会の常識」、「社外の常識」に目配りができていないと、”内部の論理”に埋もれてしまい、身動きが取れなってしまうのです。こうなると、言葉だけの危機管理は一人彷徨し、迷走しながら、危機管理の実現や実行への指示は空しく響くだけとなってしまいます。これが、冒頭で述べた「本来単純なものを複雑化させる、何か別の要因」の正体です。したがって、危機管理に当たって、この単純で明快な”常識”を堅持することが、解決化する筋道を”複雑化”させないためにも、如何に重要であるかがお分かり頂けたでしょう(ただ、「社会の常識」は時代とともに変容するとも言われていますし、現在はそれ以上に「社会の劣化」や「社会の病理」がクローズアップされております。この点に関しましては、本論の対象範囲を拡大せざるを得ないため、紙幅の関係で別の機会に譲らせて頂きます)。

良識・見識・胆識と危機管理

 次に、”良識”を取り上げてみましょう。この言葉は、「君の良識に任せるよ」という期待と「良識の欠片もない」という糾弾の局面の両方に使われています。危機管理に関わる状況では「今、この会社の(経営陣)の良識が問われている」と迫られます。

 これも、不祥事等を起こした場合によく使われますが、細かく見ると起こした事象そのものに対してより、その事象への対応(の不適切さ)に対して、投げ掛けられることが多く見受けられます。

 つまり、「もともと”良識”が欠如していたから、不祥事を起こしたのだろうが、その後の対応を見ても、一貫して”良識”が感じられない企業だ」と言われているようなものです。これでは、信頼回復など、とてもではありませんが、覚束ないでしょう。

 組織の論理は、この”良識”に対しても、攻撃を加えたがりますが、”常識”に比べて、より個人の信念に依存する部分が多いと思われます。それだけに、個人のストレスや葛藤を招き込まないような組織設計が、危機管理体制そのものに繋がるような工夫が重要な施策となります。

 さて、次に”見識”となると、どうでしょう。この言葉の用法としては、人も会社も「見識が疑われる」と一段厳しいところから糾弾されます。何故なら、見識を備えていて”当然視される”対象(個人・組織)に対する強烈な疑問として提示されるからです。

 そもそも、普段から見識ある企業であるとか、経営者であると見なされていないのであれば、「ウチの会社はそんな立派なものではないから」と言って、ある程度やり過ごすこともできましょうが、業界を代表する優良企業であったり、経営者が財界を代表する論客であったりすると、この”見識”のハードルはますます上がってしまいます。

 また、「最悪の事態」を想定できるか、できないかも、この”見識”に拠るところ大と言わざるを得ません。見識なきが故に、想定事態を過小評価したり、誤った想定を成り立たせてしまうからです。

 さらに、”胆識”という言葉もあります。これは個人の人格や徳性に関わってくる言葉ですので、優れてリーダーシップの問題でもあり、指導者層に求められる資質と理解されます。これに品性や知性が具備されれば、一つの理想型でもあります。

 ただ、”胆識”の重要性はそれだけではありません。それは、企業も、個人も、「見たくないもの、都合の悪いもの」には眼を背け、耳を塞ぎたがりますから、胆識をもって、それらに正面から向き合う勇気が必要です。危機管理においては、問題を先送りしないためにも、不可欠な態度なのです。これを怠ると、またまた問題を”複雑化”させるだけになります。

意識と危機管理

 ところで、企業不祥事の大部分は、コンプライアンス違反事例が占めていると思われます。この場合、「何故、違反したのか」に対しては、「コンプライアンス意識が欠如していた」との回答が用意されます。さて、本論では危機管理といろいろな”識”との関連を記述してきましたが、ここで、そもそもの”意識”に帰着しました。

 ことコンプライアンスに関わる限り、”知識”より、”意識”の浸透の方が重要であり、優先されるべきとの合意形成が期待されています。つまり、「コンプライアンス知識は有していながら、コンプライアンス意識は希薄だった」などと指弾されないための、継続的取り組みを推奨しているわけです。「危機管理知識と危機管理意識(リスクセンスでも良い)」に置き換えても同様です。この覚醒された”意識”は、経営の長い時間軸で必要なもので、例えば、問題が大きくなって、緊急記者会見を開催しなければならなくなったというような”時”だけに限った話ではありません。

 さて、根本的な”意識”の問題にまで遡ってきたので、もう少し掘り下げてみます。”常識/非常識”の対比に相似したものに”意識/無意識”があります。”無意識”が”深層意識”に宿しているのならば、その底に沈殿しているものの大半が良心なのか、業(カルマ)なのかによって、選択される思考様式や表現される行為の倫理性の範囲は、自ずから規定されてきます。

 企業不祥事や企業スキャンダルに話しを戻しますと、これもまた、至って簡単なことなのです。つまりは、「良心は痛まないのか」という自問に尽きるのです。仮に、良心が深層意識に沈殿していたとしても、”良心の呵責”が素早い反応として、現われてきさえすれば、いわゆる”組織の暴走”を早めに止めることができるのです。

 別の言い方をすれば、「何故、良心が敏感でなくなったのか」や「何故、良心の声に耳を傾けなくなったのか」を深く省察する必要があります。ただ、その答えは、繰り返しますが、冒頭でも述べてように至って簡単で、本人が一番よく分かっているはずなのです。ところが、その簡単なことが、自分ではよく分かっていながらできない、あるいは本当に本人も分からなくなってしまったという、その理由・背景・経緯こそが、組織としての省察対象になります(その本質を見抜くことは、”眼識”でもあるのです)。

 そして、その省察結果を現実の経営計画や人事管理、さらには危機管理計画に、実務的に取り入れていければ、”組織の暴走”も”組織の病理”も生み出さなくて済むのです。そのような因果関係への理解が、今後の企業経営にとって、実に重要であることを”認識”して頂けたら、本稿の目的はほとんど達成したといえます。

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