SPNの眼

2013年の展望と課題~政治、経済、そして企業~(2013.1)

2013.01.09
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政治動向

 2009年の総選挙で民主党政権が誕生したときは、明らかにそれまでの自民党政治にノーを突きつけた形となり、それだけに期待も大きかった。しかし、その政権の3年間、期待は裏切られ続けたと言ってよい。官僚を上手く使いこなした上での政治主導であれば誰も反対しないし、むしろ歓迎する。それが本来の姿でもある。

 東日本大震災という未曾有の事態が発生したことも民主党にはマイナスに響いたが、自民党政権であったならば、もっと上手く対応できたかどうかは、実際のところよく分からない。いわゆる”原子力村”は自民党政権下からあったものだし、その頃から発足したものだからだ。

 結局、民主党政権による3年間というものは、パフォーマンスと政争に終始した印象が強い。もっとも、小沢一郎元代表に絡む幾つかの裁判の判決は、結局は全てが無罪となり、検察による捜査や起訴がなされたそれぞれの時期を考慮すると、何がしかの”意図”が背景にあったことは、今や多くの識者によって指摘されているところである。

 ただ、それは別にしても民主党全体で見れば、政権交代前の閉塞感を打破することはできずに、むしろ混迷を深め、長期化させたことの責任は重いと言わざるを得ない。

 そこで、自民党政権への回帰ということになったわけだが、先の総選挙の投票率の低さから見て、自民党への全面信任を意味しているわけではないことが理解される。

 自民党の安定感が消去法的に選ばれたと云われる所以である。安倍政権はその辺りを十分承知しているようで、慎重な政権運営を心掛けているようにも見える。

 徐々に独自性を発揮してくると思われるが(特に今夏の参院選後)、如何に政策バランスに配慮しつつ、リーダーシップを発揮していけるか、特に、競争政策や雇用政策などは直接、経済界にも影響を与えるので、注目して見ていきたい。

 また、前回の安倍内閣から、福田、麻生、鳩山、菅、野田と6代続けてほぼ1年で首相が交代している。これは世界的に見ても稀有なことではないか。政策の評価は一旦措いても(本当は措いてはいけないのだが)、せめて2年ぐらいはやってほしいものである。

 一国の首相がコロコロ代わるようでは、既存政党に対する政治不信はますます高まり、国民生活においても、企業の経営活動においても、良い影響は出てこない。

 政策効果が現われるには、ある程度の時間も必要である。野に下った民主党も党利党略に走らず、国益の観点で、協力すべきところは協力し、論点を争う場面では、正々堂々と議論することを期待したい。

成長戦略の中身

 経済では、失われた20年と云われ、デフレスパイラルの地獄からなかなか抜け出せないでいる。鳩山政権が日米関係、特に沖縄普天間問題で失脚したことを受け、菅政権は経済問題を前面に押し出し、デフレ脱却と成長戦略をしきりに言い出した。

 目標として掲げた「最小不幸社会」とセットで捉えられるべきであったとも思われるが、財政と社会保障の立て直しのためには消費税のアップ、経済成長にはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加が必要と突如として表明したのである(この時点で自民党と民主党との間の経済政策の幅は極めて狭いことを多くの国民が知った)。

 特に、東日本大震災からの復興を支え、スピード感を出すためにも、成長戦略の具体化が各方面から強く求められていた時期でもあった。

 しかしながら、成長戦略とは何なのか、従来の経済成長を再び指向することなのであるのか、今ひとつ分かりにくい。もちろん、経済活動の停滞が続けば、その国はやがて衰退するだろう。逆に、その国が豊かであれば、その国民は幸福であろう。今求められているのは、その成長の中身と豊かさの内実、そして幸福の在りようではないだろうか。

 高度経済成時代と現代では、日本の経済構造と社会構造は全く違っており、また世界の貿易構造も変化している。その変化に合致した成長のあるべき姿(成熟と言い換えてもよい)が模索されるべきと考える。

 自動車や電機などに代表される輸出産業がGDPに占める比率は、実はせいぜい10%台と云われる。もちろん、ともに裾野の広い産業であるから、その数字以上の相乗効果により、日本経済に貢献している実態はあると思われる。外需に組み込まれている隠れた内需(企業間取り引きや消費)というものが相当数あることは、十分に推測できる。ただ、内需、外需問わず、国家規模や成熟度合いに応じた成長の姿というものがあるはずである。これは、何も米国お得意の二流国、三流国という言い回しを唯々諾々と受け入れることを意味するものではない。

 例えば、主要輸出先である米国は、日本や中国に米国債を買い支えしてもらい、自らはドル紙幣を刷りまくることによって、財政赤字を補填し、国民の過剰消費・過小貯蓄は、何も変えようとしない。過剰消費の借金国へ製品を輸出しまくるという構図をどのように捉えるべきであろうか。その製品の仕様・品質が国際標準であっても、日本的なガラパゴス化された製品であっても同様である。ここに国際競争力というキーワードを解く鍵もあると思われるのである。つまり、途上国型経済成長か、新世紀に相応しい経済発展のどちらを志向するのかという問題設定である。電気自動車や燃料電池、あるいは再生可能エネルギーといった分野で日本が世界の先頭を走っていれば、それは従来型の前者のパターンではないかと思われるが、省資源・省エネルギー・環境保護の観点から見て、後者の新パターンに属するものと捉えられるのである。

 仮に、シェールガス革命で米国がエネルギー輸出国に転じれば、従来の米国製品を無理やり日本に買わせようとする圧力も変化してくるかもしれないが、シェールガスでさえ、大量消費しなくても済む技術開発で高値購入を回避すらできるのである。

 それは、米国はもとより昨今の世界各国が帝国主義的様相を復活させてきていることへの対抗手段になり得るのである(言うまでもなく、日本が抱える国境問題や安全保障問題は別の視点が必要である)。つまり、途上国型経済成長でもなく、帝国主義復活でもない新しい成熟型成長戦略の在りようであり、国の在りようである。

 米国と並ぶもう一方の主要輸出先である中国やアジア諸国はどうであろうか。それらの地域には、すでに現地生産や現地開業、現地雇用で進出しているため、むしろ産業の空洞化が指摘されてきた。これらの場合、市場も、雇用も日本国内を対象としていないため、日本経済や国益への貢献度合いは、何で測ればよいのであろうか。

 納税の配分の問題もあるが、それ以上に日本国内での雇用の喪失、特に若年層の雇用問題の解決の糸口がなかなか見つけられない。自動車や電機などに替わる新産業が出てくることを期待するしかないのだが、結果的にグローバリゼーションの進展により、無国籍化する企業が栄えて、国滅ぶでは、経済成長云々以上に笑い話にもならない。

 その意味でも、安倍新政権が小泉政権時代との違いを打ち出せられるかが、非常に重要なポイントになってくる。格差の拡大、格差の長期化・固定化に資する結果を招けば、また大きな揺り戻しが来るだろう。規制緩和にも、規制強化にもともにリスクとメリットがあり、それぞれ対象とするべき領域は異なることを、如何なる既得権益層にも配慮せず、具体的に示してほしい。

 もともとの「経世済民」の意味をよくよく噛み締めることが肝要である。政治と経済は一体不可分なのである。ここにも成熟型成長戦略の在りよう、国の在りようが見えてくる。そして、その先とその根元に国民の在りようと企業の在りようが基礎をなしている。

少子高齢化の進展

 今度は日本の経済成長を別の視点から考えてみたい。もう一つ考慮すべきことは、少子高齢化問題である。日本は先進諸国のなかでも、少子高齢化が加速度的に進んでいる国である。

 それぞれの国の15歳から64歳までの人口(生産年齢人口)を、0歳から14歳までの人口と65歳以上の人口の総和で割った値が2以上になっている状態を人口ボーナス期と呼ぶ。

 分かりやすく言えば、生産年齢人口層のボリュームが厚いということであり、経済成長が加速しやすい期間のことを指している。

 人口ボーナス期は原則1国に1度しか訪れない。日本でいえば、昭和30年代から40年代の高度経済成長期がこれに当たる。新興国では今後、人口ボーナス期を迎える国が多い。

 一方、人口ボーナスとは逆の状態を人口オーナスと呼ぶ。総人口の中で生産年齢人口が減るということは、経済に直接マイナスに作用する。労働力だけでなく消費や税収も減少し、一方では年金などの社会福祉負担は増加するからである。その結果、貯蓄・投資は減少し、当然のことながら、内需は縮小に向かわざるを得なくなる。

 日本では1990年代のバブル崩壊後ぐらいから人口オーナス期に入ったと云われるが、人口オーナス期に入ってからの国のありよう、言い換えれば”国のかたち”や”国民の幸福”をどのように展望・構築していけばよいのだろうか。

 人口オーナス期においても、なお従来型の経済成長に執着し続けるのか、それとも米国並みに大量の移民を受け入れて、日本的な新しい「モノづくり国家」を再構築しようとするのか、これから新たな模索が続くことになる。結論を急げば、人口減少による内需減少、経済構造の変化による外需減少という総需要の減少を、何をもって補っていくのかという問題に行き着く。この模索は危機克服の過程でもあり、国、企業、個人すべてにとって重要な課題となる。成熟型成長戦略の真髄がそこに見出されるべきである。

 今や少子高齢化社会としては、世界の先端を行く日本の選択は海外からも注目を集めている。未曾有の大災害とそれに続く原発事故まで経験したのだから尚更である。

 従来の成長神話を信奉し続けるのか、それとも人類の目標となるべき新しいモデルを打ち立てられるか、日本人全体のバランス感覚と見識、さらに超長期的なリスク感覚が問われている。国も、企業も、個人も同様に問われているとの認識が必要である。

 資産と精神がともに成熟している、ともに豊かであるというような状態を創出していかなければならない。資産と精神のどちらかが劣化している、あるいはともに劣化させるような成長戦略など誰も望まない。

企業の問題意識

 年収200万円台の就労者比率が2~3割にも達している現在の日本社会、一方で億単位や何十億という年収で不必要な贅沢や浪費をする層が確実にいる。それでも、それが経済成長に結びついていれば良いのだが、現実にはそうはなっていない。トリクルダウン現象は、盛んに喧伝されたバブル後も、そして現在も起きていないのである。むしろ、逆に富の偏在と二極化が加速している、そういう国の在りようになってしまっている。

 所得の再配分機能を担うのは、もちろん政治ではあるが、企業としても従業員や雇用を守ることが自社にとっての最大の危機管理であり、ひいては事業継続にも繋がるものと深く認識して、従業員からの固い信頼を繋ぎ止めてほしい。

 昨今、ブラック企業が社会問題化している。間違ってもブラック企業などというレッテルを貼られることだけは、是非とも回避してほしい。もし、そのようなことになれば、その企業のビイヘイビアは反社会的行為と見なされ、その企業のレピュテーションは大きく毀損されることになる。反社会的勢力と取引をしているわけでもなく、ましてや反社のフロント企業でもないのに、ブラック企業の烙印を押されてしまうのである。

 従業員をコストとしてだけ捉え、まるで部品のように使い捨てる企業が増えていることが、多くの告発本で明らかにされている。

 それらの企業の成長は、国全体の成長に結び付かないばかりか、その行為は社会的コストを増大させている。

 これらの企業の生き残りのための「危機管理」は、結果的に公益に反することになってしまっているのである。したがって、その企業のCSR活動など、誰も信用しなくなる。

 敢えて、CSRと言わなくても、反社会的行為に手を染めず、社会的営為であるまともな経営活動を粛々と継続して、国の成熟型成長戦略に貢献して頂きたいと思う。

 米国のキッシンジャー元国務長官に対しては、毀誉褒貶があるが、彼はかつて以下のような発言をしたという。

 「政府高官の地位を得ることによって、我々は政策決定のやり方を学ぶことができる。しかし政策を判断する能力は身につかない。高い地位に就いても、知的な能力が増すわけではない。高い地位を得る前に学んだことだけが、役に立つ」。

 各企業のトップには、是非この言葉を胸に刻み込んで頂きたい。経営の方途を見間違えないように、バランスの取れたブレーンを配置すること、そして従業員を不幸な目に合わさないように、本当の「危機管理」を実践してほしい。

 そして、如何に海外展開を進めたとしても、日本企業であることの誇りを忘れないでほしいと思うのである。

 この1年も厳しい経済状況が続くだろうことが予想されるなか、そういうときだからこそ、年頭に当たって、本筋を踏み外さない経営努力が重要であることを強く指摘したい。各社の経営理念や原点に常に立ち返ることを忘れないでほしい。

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