SPNの眼

「企業危機管理」と「社会危機管理」との関係(1)

2023.05.08
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総合研究部 専門研究員 石原 則幸

書類に書き込む人のイメージ

※本稿は全3回の連載記事です。

強化される「企業危機管理」?

毎年のように企業不祥事が繰り返されるたびに、再発防止策として“危機管理の強化”が叫ばれる。脆弱性を放置しないという意味では、外部からのサイバー攻撃に対しても同様だ。
しかし、“毎年のように繰り返される”と表現せざるを得ない状況が続いているのは、何故なのであろうか。これは直接自社が起こしたものではない他社事例に対して、他山の石として教訓にすべきものがなされていないことを示す。また同じ会社で起こったものであれば、前回の“再発防止策”は結果として口先でしかなかったことになる。あるいは、全社に危機感が共有されず、その意識やルールが隅々まで浸透していなかったことになる。

危機管理(策)の(再)強化の内実とは、即ち、内部統制の充実・コンプライアンスの強化・ガバナンスの強化ということが言われる。不祥事の原因はこれらが不十分であり、抜け穴があったことに帰せられるのがほとんどである。したがって、改めて、内部統制の再充実・コンプライアンスの再強化・ガバナンスの再強化が図られることになる。そこでは例えば、コンプライアンス・ハンドブックの改訂版が作成・配布されたり、社員への教育研修が定期的に実施されたりする。

しかし、そこには何らかの盲点が存在する。でなければ、“毎年のように繰り返される”わけがないからである。筆者の記憶では、この表現はすでに20年近く使われている。ということは、20年間にわたって、“危機管理の強化が叫ばれ”てきたにもかかわらず、実質的・実態的に功を奏していないことになる。これには幾つかの社内外双方の理由が考えられる。本稿では、その理由の一つひとつを明らかにしていきたい。

上滑り・空回りする「企業危機管理」

まず社内の背景から見ていくと、第一に挙げられるのが、不祥事発生・収束後の「二度と起こさない」という危機意識や誓い・(本当の意味での)コミットメントが、大きな組織になればなるほど、全社員に共有されるに至っていないということである。「今回の件は○○事業部(工場)で起こったこと」、あるいは、その後の対応策についても「本社のコンプライアンス推進部が対面上やっていること」、だから「俺たちには関係ない」といったところだ。

つまり、不祥事を起こした同一の会社でありながら、組織内の一部はどこか“他人事”で当事者意識に欠けることが多いのである。同じ会社が数年おきに不祥事を繰り返すのはそのためである。事案が発生したときは、「会社存続に関わる一大事」と言われながらも、余程の経営戦略の失敗で、外資に買収されるようなことでもない限り、未だに会社は安泰だと思い込んでいるのである。しかしながら、社内の居心地は徐々に悪化しているはずだ。例えば、社内のコンプライアンス教育研修は、一社会人に対して、そんなところまで指示・干渉してくるかといった微細な領域にまで介入している。またハラスメントの種類は膨張する一方である。教育研修に参加する社員の本音はどうなのだろう。「こんなことにまで、わざわざ時間を割いてすることなのか」と思っていないだろうか。もし採用社員の質が低下し劣化しているのならば、採用時の選択基準をより工夫すべきだろう。

それよりも、実際の不祥事の種類は、会社上層部が関わる経済事犯であったり、永年にわたる品質不正であったりする。特に近年頻発している製品データの改竄問題は、いつの間にか“パンドラの箱”状態になっていることが多い。当該企業にとっては、人員不足による品質検査体制の不備であった上に、納期もノルマも迫られている状況に追いやられている場合がほとんどだ。このように不正は無理に無理を重ねた末に否応なく現出する。建設現場でも同様のことが発生する。これはまさにリスクを抱えたままの操業ということであり、現場も経営陣もそのリスクに目を瞑るという選択肢は本来あってはならないことである。

取引先との契約条件を含め、おかしいものはおかしいと言える雰囲気、そのような社内風土を形成し、より強固にしていくための“教育研修”は果たして実施されているのだろうか、甚だ疑問である。「見える化」を図ったのに、いつの間にかまた「見えなくなってしまった」に陥っていないだろうか。一度開いた“パンドラの箱”がまた閉まってしまっては、社内のコミュニケーションの円滑化は限定的となり、問題の本質には迫れないのである。

リスクコミュニケーションの範疇はここまで広いことを熟知しておくべきだ。品質不正問題に付け加えて言うならば、それが本当にその一企業だけに関わる特殊事情であれば、何ら弁解の余地はないが、もし当該業界特有の事情であれば、一企業ではなく業界団体として抱える問題点を明確にし、監督官庁や広く社会・メディアに訴えていくべきである。

“パンドラの箱”が閉めた状態のままであれば、取引先に迷惑は掛からないし、社内的にも問題は発生しないと考えがちであるが、一度箱が空けば、取引先のみならず、ステークホルダー全体から、さらに自社の非ステークホルダーも含めた社会全体に迷惑を掛けることになる(そうなるのであれば、「経営理念」にCSRやCSVなどはむしろ掲げない方が良い)。また一個人の保身が蔓延すると、組織全体の保身に繋がり、透明性は低下する。そのような企業がいくら危機管理の強化を叫んでも、所詮は“犬の遠吠え”と見なされる。

結果的にコンプライアンスを無効化する上下のアプローチ

“危機管理の強化”を社員対象の下位からのコンプライアンス研修から見ると、過剰さが目立つ。一方、実際には経営陣に関わる不祥事案が多く発生しているのだから、上位からの経営陣向けのコンプライアンス研修も必要なのであろう。しかし、本来彼らに必要なのは、役員・幹部としての覚悟や矜持であって、コンプライアンスは所与のものでなくてはならない。それが何故、そうならないのか。しかも、今や多くの企業で、幹部・社員双方に向けて「企業倫理綱領」や「社員行動規範」などが、小学校や中学校の校則宜しく、これでもかと言わんばかりに制定されている。しかし、それらは本当に効果的に機能しているのだろうか。

コンプライアンス研修に関しては、実効性の担保がかなり怪しい。もし、その企業のリーダーたるトップが見掛けからは分からぬままに凡庸であるばかりでなく、ある種の狂気や病理を有していれば、当然その組織も凡庸さとある種の狂気・病理に覆われるようになる。それは放置しておきながら、微に入り細に入りの過剰コンプライアンスの強要は、コンプライアンス全体主義を招来し、社内は単なる従順さ・コンプラドール(操り人形)化を要請する空気に支配される。そこにノルマによる支配が重なり、社内に閉塞感が充満していく。また、社内の一部では、法令遵守・ルール遵守が出世欲と保身と合体、表裏一体となり、思考停止状態に至る。これがコンプライアンス至上主義(原理主義)狂騒曲の実態である。

また、倫理綱領の制定には以下のような逆機能も作用する。①倫理綱領を制定したこと自体で自己満足に陥る、②不祥事を覆い隠す(隠蔽の拠り所)道具として利用される、③組織の問題が個人の問題に還元(矮小化)される(責任はその個人に帰される)、④自社倫理綱領絶対主義(自分たちの基準が正しく善であり、社会の基準は遅れており、間違っているとの独善的思い込み)などを生じさせるリスクがある。経営理念ともども倫理綱領を“ショーウインドーの装飾”化にしては絶対にならないのである。そのために本当に必要なもの、本当に“危機管理の強化”に資するものは何なのか。

第一回 おわり

次回(6月号)に続く

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