リスク・フォーカスレポート

広報と危機管理編 第三回(2013.4)

2013.04.17
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「広報とレピュテーション」

社会的信頼性とレピュテーション

 本連載の第1回で、「社会的信頼性の高い企業とは『世間にはこういう企業があってもいいよね』とか『ああいう会社が社会になくてはならない』と言われることで、社会的な受容・容認を受け、さらに期待にまで発展している企業のことを指し、信頼性の低い企業は、『世の中にああいう企業は存在してはダメだ』と言われ、存続どころか存在すら否定されてしまうような場合である」と述べた。

 社会的信頼性とレピュテーション(評判・評価)との関係を明示すると、レピュテーションが高ければ社会的信頼性を勝ち得る、また、社会的信頼性の低い企業のレピュテーションが良好であるはずがない、ということになる。両者はイコールではないが、「あの企業(社長)の言うことは信頼できないが、出しているモノ(商品)はそこそこ良い」との評価はあり得るし、また、複数の消費者が「あそこのモノだけは絶対に買わない」というレベルにまで態度を硬化させるケースは、余程の不祥事でも起こさない限りは、実際にはそれ程頻繁にあるわけではない。

 それだけにある程度まで確立されたレピュテーションが一気に毀損するケースは、実際には稀である。むしろ、もともとレピュテーションなど大して獲得していなかった企業が社会的に糾弾されて信頼を喪失しただけで、普段からその企業活動やビジネスモデルにレピュテーションリスクを抱えていたケースも多い。あえて、言えばブラック企業やグレー企業に対して、レピュテーションを語ることは不適切であり、また無意味である。これらの企業は、レピュテーション以前の問題に取り組むことが優先されるべきなのである。

 ただ、そもそも自社の評判の低下を望む企業などあり得ないはずで、企業活動の目的のなかにレピュテーション向上を入れない企業はない(と思われる、そう思いたい)。

 問題はその目的達成のための活動が、企図された作為的・人工的なもの(戦略)か、あるいは自然発生的なものか、ということにある。

 しかし、自然発生的なものも事前に予期した結果であると断言できる場合は、意図的とも言えるが、これは優れてトップの理念や信念(我が道)に基づくレアなケースである。

 あえて、レピュテーションに関わる積極的な働き掛けをせずに、評判を獲得する”方法”というより、むしろ”スタンス”といった方がよいであろう。

イメージとレピュテーション

 (企業)イメージとレピュテーションもまたイコールではない。確かにイメージは創出されたり、場合によっては演出されたりして抱かれ(抱かせ)るものであり、レピュテーションは、当該企業の活動(action)や振る舞い(behavior)、態度(attitude)などによって、長期にわたって獲得されていくものである。したがって、レピュテーションとは各ステークホルダーが他人からの影響や強制ではなく、自己が認知した集合体であり、その認知から与えられた評価でもあり、また認知から選好された行動パターンとその結果の集積したものである。

 しかし、イメージとて、先に述べたレアケース(自然発生的)と同様、創出意図・演出意図がなくても、あるいは意図がないことによって抱かれることも十分あり得る。また、社会的信頼性との関係と同様、好イメージで低レピュテーションな企業、逆に悪イメージで高レピュテーションな企業は考えにくいし、現実的には見かけることはない。好イメージが社会的にも定着していれば、高い評判も獲得しているはずである。

 ただ、「イメージが壊された」とか「イメージダウンした」場合や、「レピュテーションが毀損(劣化)した」とか「評判倒れだった」などという場合は、ともに期待されたものや当然視される水準と、実態・実像・実質との乖離を見せつけられることでショックを受け、失望させられるパターンがほとんどである。その場合、その印象や評判が変化する契機というものが必ずある。

 危機管理の上ではその契機後の対応の良し悪しや巧拙がカギを握ることは言うまでもない。対応が良ければ、イメージ回復にも、レピュテーションの再構築にも繋げられるのである。したがって、この両者をあえて細かく定義するのも、実際にはあまり馴染まないかもしれない。ただ、期待と実態との乖離についていえば、「イメージ先行」とか「イメージだけどんどん膨らんだ」などと指摘されたり、反省される分だけ、イメージの乖離の方がレピュテーションより距離感がある。

 何れにしても、レピュテーションやイメージが実質や実態と大きく乖離することなく、適切な距離感を保つことが重要である。この両者は例えば、遠心力と向心力や、引力と斥力のように、相互制御し合い、微妙かつ絶妙なバランスを維持していかなければならない。

 雪だるまにお湯を掛けたら、中身は小石だったなどということがないように、必要以上の厚化粧は不要なのである。つまり、両者の乖離を認識するためにギャップを把握する必要性がよく指摘されるが、実質・実態に関する厳しい見方やマイナス情報が、バイアスがかからないまま、正確に社内に伝達されていなければ、その距離感を過少に評価・誤算してしまい、元も子もなくなる。組織として必要なところに、必要なタイミングで、必要なことを伝える広聴・傾聴が如何に大事かということである。

 一方、レピュテーションは企業にとっては「資産」でもあるので、たとえ、毀損・劣化しようとも、ゼロやマイナスにならないように、普段から資産をコツコツと貯めておくことが重要である。しかし、イメージ同様、あまりに実態を上回る資産規模は、ダメージ耐性の強化のためには推奨されるが、逆に大きな資産がリスクにならないように注意を払う必要がある。レピュテーション資産は優良資産でなければならない。身の丈に合ったレピュテーションで、「足るを知る」という方針も一つの選択肢である。

広報とレピュテーション

 さて、先に「レピュテーションとは各ステークホルダーの認知の集合体である」と述べた。この「認知」を完成させるものとは、一体何であろうか。もちろん、それは企業発のコミュニケーションである。この連載ではこれまで、なかんずくソーシャルコミュニケーションの重要性を説いてきた。そして、ソーシャルコミュニケーションが広報コミュニケーションの王道たることも説明してきた。

 影響力や信頼性において、若干の疑義が呈せられてきてはいるものの、未だに企業の全ステークホルダーをカバレッジするのは、既存のマスメディアからの情報である。ネット上の話題や言説の大半がマスコミ報道をネタにしている現状から見ても、それは明らかである。したがって、企業にとっては平常時も、緊急時も、如何に適切・正当・誠実・真摯で、質の高いメディア対応をすることで、各ステークホルダーに正確な情報を届け、最終的には、彼らの「認知」に委ねるしかないのである。

 各店舗や販売現場等でクレームが発生し、その対応に不備があったとして、また企業が問題のある取引先を抱えているとの噂が流れ、それがネットに波及したとしても、まだその段階では一部のステークホルダーの関心に留まり、そこで解決・収束する場合も少なからずある。したがって、それらの事実を関連当局が正式公表したり、マスコミ報道にエスカレートしない限りにおいては、実は全ステークホルダーのレピュテーションにまでは作用することはほとんどない。

 現状、レピュテーションリスクといわれているもののほとんどが風評リスクである。風評とレピュテーションは本質的に異なる。風評はその発生時点では、別段悪意がなくても、結果としては、風評リスクに転化しやすい。特に、ネット風評と呼ばれているもののなかには、云われなき誹謗・中傷などが含まれる。それらの悪意ある風評に関しては、その風評を生じせしめ、成り立たせる要因を分析することが重要である。

 その風評が発生した背景・経緯・心理(不安・焦燥・差別など)と誹謗・中傷のメカニズムを客観的に分析し、その影響力と波及力を予測することによって、正しい反応・対応を選択すべきである。それが悪意ある噂でしかなく、全く真実ではないのであれば、正々堂々と証明・反論・説明すれば良いのである。そういったこちらの声に真摯に耳を傾けてもらえるかどうかも、実はその時点までのレピュテーションに係っているのである。

 さらに言えば、その時点までの広報コミュニケーションの質と信頼性に依存しているのである。したがって、そのときの選択ツールは事象のスケールや特性に応じて、SNSでも、既存メディアでも、どちらでも良い。相応しいものを選べば良いのである。但し、社会的インパクトが大きい場合は、既存メディアをスルーすることは非常に危険である。

 東芝のクレーマー事件を想起するまでもなく、ネット上の炎上から、既存メディアを巻き込む”大炎上”に発展させてしまうと、まさにレピュテーションは毀損される。

 このとき、炎上レベルでも、大炎上レベルにおいても、レピュテーションの挙動・行方を左右するのは広報のソーシャルコミュニケーションであることを忘れずに、延焼によって、全てが焼き尽くされることがないように、火の手をコミュニケーションで制御しなければならないのである。

広報リスクとレピュテーション

 従来の広報リスクは、その企業の広報力・広報レベル・広報センスに原因のほとんどがあった。例えば、広報の専任セクションがない、トップの広報マインドが低い、情報開示姿勢が消極的などといった要因である。そういう企業は記者から敬遠され、取材もされず、同業他社やライバル企業に比較して、極端に露出が少ないという傾向が見られる。仮に、商品PRには熱心でも、不都合な話しには、黙りを決め込むといった企業姿勢である。

 これらが担当記者間の間でレピュテーションにならないわけがない。マスコミ報道が全ステークホルダーにリーチするという機能と効果を理解していないのである。それを十分に理解している企業は、自社関連記事の露出量だけでなく、その論調の好意・非好意なども分析して、自社の広報活動の効果測定をしている。それらの広報活動の集積がレピュテーションを左右することを経験的にも承知しているからである。

 また、このレピュテーションが「企業イメージ調査」などを含めた、各種ランキングものに確実に反映されることは言うまでもない。各種ランキングで、自社が常時下位に甘んじている現状に対して、平然としていられるトップはまずいないだろう(”各種”というところに留意して頂きたい)。

 そこで、自社の広報効果測定をする動機に繋がるのだが、これがまた難しい。広告効果測定のような定量化が馴染まないばかりでない。広告の場合は、AIDMAの各段階レベルの目標に応じた効果達成度合いを測定できるが、これは測定対象が消費者である。

 一方、広報の場合は、読者・視聴者の態度決定への効果達成度合いを測定することは困難を極める。ましてや、既存メディアの影響力の低下やネットメディアの台頭がもたらす相互干渉の環境のなかで、変数を抽出するのは至難の業である。

 しかし、である。自社のレピュテーションを継続的に獲得していくためには、広報コミュニケーション活動は欠かせないのである。そのためにも、いろいろな側面から広報効果を測定する試み自体はなされるべきであろう。冒頭に「社会的な受容・容認を受け、さらに期待にまで発展している」企業の社会的信頼性が高いことを再掲したが、この発展プロセスは実は”期待”レベルでゴールになるわけではない。さらにその後の発展形態に”社会的尊敬”がある。それはレピュテーションの究極的形態とも称すべきものであり、広報のソーシャルコミュニケーョンなくしては、望むべくもないレベルなのである。

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