リスク・フォーカスレポート

“ポスト真実”時代の企業広報(3)~フェイクニュースの構造(1)~(2017.7)

2017.07.26
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フェイクニュースの種類・類型

 一口にフェイクニュースと言っても、その種類や態様は様々である。対立構図も単純な「ファクトニュース」vs.「フェイクニュース」だけではなく、「フェイクニュース」vs.「フェイクニュース」、「ファクトニュース」vs.「オルタナティブファクトニュース」、「フェイクニュース」vs.「オルタナティブファクトニュース」、「オルタナティブファクトニュース」vs.「オルタナティブファクトニュース」等々とまさに複雑・多元的な対立構造を呈している。そして、当然”ポスト真実時代”以前のある時期には、文字通り”真実時代”があった(はずであろう)。その時代には、「ファクトニュース」vs.「ファクトニュース」という対立図式はあったのだろうか。

 これは一見すると、ともにファクトに基づく議論や論争の展開を前提にするが、いずれ科学や歴史によって決着・証明されるということになるので、この対立の期間は有限という理解があった。あるいは、「今となっては、検証のしようがない」との諦観とともに決着を見ずに曖昧なまま推移することもある。また戦争という手段を介在させ、その後の勝者・強者の論理で歴史が改竄・捏造されることもある。こうなると、最早ファクトの痕跡の発見すら困難を極めてしまう。それでは、そもそもファクトを巡る論争とは何なのか。

 それは主に政治思想、政策的是非、宗教論争などに見られたのではないか。政治思想の対立に関しては、暗殺・内戦を含む戦争にまで発展しやすい。政策的是非に関しては、その有効性や成果のどの部分に注目するかによって見解が分かれる。

 このときよく見られるのが、反対に注目しない部分とは、自らの主張に不都合な場合のことである。対立する双方が、自らの不都合な部分を敢えて認め合うならば、オルタナティブファクトも存立し得るのだろうが、片方が相手を徹底的に攻撃するので、なかなかそうもいかないのが現実である。複数政党制が成り立っている国々においても”民意の反映”の判定は実に難しい。

 これは、単に無党派層の増大だけでなく、投票率そのものの低さをどう見るかにも関わってくる。こうなると、選挙結果自体がオルタナティブファクトであるとの言説も成り立ち得るので、民主主義の根幹に関わる問題になってくる。

 野党への投票行動や投票棄権者(含.白票)を選択した少数意見をどのようにして汲み上げていくのか、それとも置き去りにするのかの政治判断を迫られるわけだが、グローバリズムの進展に伴って、格差が拡がり、勝ち組と負け組がはっきりしてくると、どうも置き去りにされた観の方が強い。”置き去りにされた者たち”が、論理よりも感情に重きを置くのは、何もルサンチマンという言葉を引き合いに出すまでもなく、当然のことである。

 ましてや、多数決原理のなかにおいても、少数意見を尊重しながら合意形成を図るプロセス事態が非常に見えにくくなっているのである。特に日本では、重要法案の強行採決が頻発し、国民不在の議論などとも批判されている。

 さらに「置き去りにする政治判断を迫られる」展開といっても、実は当初より、そのように決まっていた場合が多い。そのような支持層向けの利益誘導型の政治局面を嫌という程見せられて(騙されて)きた、感情を先鋭化させた(させるしかなった)”置き去りにされた者たち”がスマホを手に入れ、SNSに参加することによって、ネット上で”活躍”の場を見つけたのである。

 結局、ファクトを軸にした論争のなかで、白黒はっきりと決着を見たのは、天動説vs.地動説、創造論vs.進化論くらいのようにも思えるが、ガリレオとダーウィンではそもそも時代背景が異なるが、ともに現在の”ポスト真実”時代をどう見ているだろうか。
現在においても宗教論争に発展してしまえば(それこそバックラッシュであろうが、)、相手を説き伏せることは、最早不可能と言える。但し、それによってテロが容認されることには決してならない(テロリストの流す情報にファクトとフェイクの両方があったとしても)。

 さらに言えば、地球温暖化問題、特にCO2犯人説に関するIPCC(気候変動に関する政府間パネル)によるクライメートゲート事件などを見れば、科学vs.エセ科学の構図(WELQ問題もこの一端とも言える)までもが入り乱れる状況が生起しており、一方でプラセボ効果のように偽薬であることを知らされないままに勝手に安心感を得て、自然治癒力に繋がるという”事実”もある。つまり、アンファクト(unfact)がファクトになることも、アンファクトでありながら、あるファクトを生み出すという複雑極まりない状況が、インターネット登場のかなり以前から厳然とあったことを何よりも踏まえなければならない。

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フェイクニュースの狙いとその実効性

 さて、それでは現状ではどうなのだろうか。まず、フェイクニュースの作成者の意図・動機を見る必要がある。政敵・論的に対するフェイクニュースは、フェイクであるだけに悪意に満ちている。それは全くの虚偽やでっち上げであるものばかりでなく、真偽を巧妙に取り交ぜて、それらしく装って目的を達成するものである。それだけにそれを「信用したい」人々の機微に触れ、感情に訴え、彼らの信念を強化してしまうのである。

 ただ、米国の場合、オルタナライト(オルタナティブライト)とネオコン(ネオコンサバティブ)間の対立構図として見た方が良いかもしれない。実は、後者はリベラル派とも通じているためである(ナショナリズムvs.グローバリズムの捉え方をすれば分かりやすいだろう)。トランプ氏と既存大手メディアとの関係も然りである。

 さて、もう一つの”悪意”は単なる金儲けのためである。第2回で紹介したマケドニアやジョージアなどの若者の小遣い稼ぎに代表される例である。そして、これに面白半分の便乗者による拡散という第三の悪意が加わってくる。この第三の悪意の発現者が、前述の”置き去りにされた者たち”かどうかは微妙なところである。もちろん重なっている部分はあるのだろうが、これは第一の悪意者とも重なるし、第四の悪意者である情報の受信者にも重なっている。


 この第四に区分けした受信者を悪意あるものと決めつけるのは、厳し過ぎるかもしれない。しかしながら、この「自分の信じるものしか信じない」人々は、感情が先行しているため、思考停止状態に陥っているとも言えるのである。大きな政策の決定局面(選挙等)や影響を与える機会(デモ等)や力量に欠けている以上、彼らには、諦めムードが蔓延し、無批判な姿勢を取りがちになる。彼らに訴えるために、各政党は選挙公約やマニフェストで甘言を弄するが、結果、期待外れとして信認を失っていく。ポピュリズムは右派も左派も用いることを忘れてはならない。

 その諦めムードの一方で、嫌悪・嫉妬・侮蔑・差別・誹謗・中傷などの感情は対象者に向けて一気に暴発する。この4つのグループがそれぞれに重なり合っているのである(一種のコクーン化である)。これが誰もが情報の発信者になったネット社会の特質である。しかも、匿名に守られているのだから全くもって性質が悪い。

 フェイクニュースによって、相手を攻撃したり、貶めたりする、この特性はすでにネット炎上で見られていた。そこに共通する意図は、相手を追い込み、やがて排斥することにある(国際社会おいては排外主義となって現れる)。普段の日常生活においては、自己の利益・利害に触れない限りは、ほとんど無関心であるにも関わらず、こと批判対象が定まるやいなや、本人は全くの部外者・門外漢であることを顧みず、”集団”で寄ってたかって執拗な攻撃を加えていく。炎上のみならず、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムにも同様の事情が働いている。誰でもがキレやすく、クレーマー化する傾向にも一脈通じている。

 ただ、炎上事例でも少数の同一の人間が投稿を何度も繰り返しているとの研究結果が出されたり、フェイクニュースの拡散にボットが相当程度寄与していることも明らかになってきた。この仕組みは今後より明確化されるべきだろう。

 また、フェイクニュースに分類されるなかに、従来のパロディや風刺も含まれることもあるが、これはユーモアセンスに通じるものでもあり、他愛もない嘘の許容範囲を狭めることもないだろう。もちろん、どこで線を引くかは難しいところであるが。

 さて、幾つかの社会的現象が同じ文脈で捉えることができるとすれば、その根底には一体何があるのだろうか。それは、孤立社会・分断社会の進展であると同時に、繋がりの強要(仮構の繋がり)の破綻ではないかと見ている。前回触れたリテラシーの問題は、以降にずれることになることをお断りしなければならない。その後、フィルターバブルやジャーナリズムのあり方、あるいは陰謀論の起源、さらに企業危機管理(特に企業広報)との関わりなどについて論考を進めていきたい。

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