企業不祥事・緊急事態対応トピックス

企業不祥事発生の社会的構造/心理/メカニズム

2026.08.04
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総合研究部 専門研究員 石原 則幸

法の下の平等、社会正義、倫理を象徴する概念的イメージ

筆者はこれまで20年以上に亘り、本HPやその他当社発行媒体にて数多くのレポート類を執筆してきた。その中には「企業不祥事」に関わるテーマも多いこともあり、今回はそれら過去の執筆物の中の関連する内容で、現在もなお課題として位置付けられ続けている要素を構成し直し、最近の情報も付加しまとめたものである。
この間、不祥事発生要因の除去と不健全な経営状況の改善を急ぐように、法制度、経営管理手法・ツール等各方面・各段階から多くの危機管理諸論(コンプライアンス、コーポレート・ガバナンス、内部統制、内部通報制度、人的資本経営、ESG、ウェルビーイング、リスキリング、AI研修等々)が紹介され、導入されつつある経緯は周知のものとする。

1.不祥事発生と危機管理論の五つの関係

しかしながら、結果として、それらが十分機能することは残念ながらない。結論を急げば、もしそうであるならば、今後とも機能しないのではないかとの疑念さえ生じる。何故か―。これには複層する5つの背景が考えられる。一つずつ解説していこう。

(1)「範囲・場」の問題

  1. まず、一つ目は、新理論や法制度を整備しても網に引っ掛からない抜け穴や、罰則も含めた法の効力が及ばない、あるいは効力が弱まる「範囲・場」というものがどうしても存在することである。その“場”とは、業種・業界であったり、業態であったり、また一組織であったり、はたまた特定部門であったり、個人であったりもする。
  2. いわば、多様な形態で社会にその“場”が存在している。この“場”には、“(法の)網に引っ掛からない抜け穴”を指南するコンサルタントも生息している。いずれにせよ、この“場”に居住している、あるいはこの“場”を提供している企業群は従業員の雇用形態や労働環境に関係なく、ブラック企業の範疇に入る。
  3. そして、一般の消費者が被害者になることも多いことから、これらのケースでは企業関連法制よりも、きっちりとした刑法での適用を強化すべき筋合いの話にもなる。ただ、消費者側にも“上手い話に迂闊に乗らない”、ただ“騙された”という結果に陥らない“ように、リスク(加害者の手口の変化等)への十分な注意とそれを引き受ける覚悟、そして、何よりも反省が必要である。近年の詐欺的商法の被害実態には、消費者側の“脇の甘さ”が目立つのも事実だからである。
  4. さらに、反市場勢力による企業乗っ取りに関しては、この“脇の甘さ”は、旧経営陣に移転する。そもそも杜撰な経営実態や粉飾・糊塗された経理状況を招来させてしまった経営責任(しかも長年に亘って)というものが前提にあるからである。これは動かしがたい事実である。
  5. 一時でも健全経営を推進・実現していた企業であるならば、“流行りの手法や概念などへの迅速な対応”を迫られるというプレッシャーに進んで応えるべく、先に挙げた危機管理諸論に基づいた制度(組織やルール)設計にすでに着手していたはずである。
  6. 実は、そこに不祥事発生企業に共通した一つの陥穽が見出せる。つまり、“はずである”から、制度設計も完成した“つもりになってしまう”のである。したがって、実はこの“場”からの脱却が、危機管理上は何よりも優先されなければならないのである。

(2)「心理」の問題

  1. “場”に続く二つ目の要因となるのが“心理”である。この心理には、焦りや動機、思い込みや思い違い・錯誤といった諸雑観念も含まれ、それぞれの“場”において発芽する。だが、一つの特定の“場”を越えても、つまりは“法の効力が十分に及ぶ範囲”であっても、難なく姿を現すことができるという特性を持つ。何故ならば、“場”の種類や広さに関係なく、慢心や高を括るといった思考から生じるものだからである。
  2. さて、この“つもりになってしまう”という軽々な判断や甘い状況認識、あるいは事実誤認・実態未把握に対して、(「バスに乗り遅れるな」的な)「時代状況」という“流行り”に急かされる面が影響してくるのは否定し難い。それが、安易で軽々な開示姿勢という次の局面を連れてくる。
  3. 結果的には、設計された制度自体が中途半端であったり、不備があったり、または外観だけを取り繕ったものであることが判明してしまったにも関わらず、まるで目的を達成したかのようなフリをする。社内で確実に実践され、組織全体に浸透・定着していると自社サイト(HP)を含めて、取り組みの成果を喧伝してしまうのである。
  4. これらの“開示パフォーマンス”自体もまた、“流行り”に急かされているためである。実際に、不祥事を起こしてしまった企業が発覚後も発覚前と変わらず、同一の「コンプライアンスポリシー」や「ガバナンス方針」などを平然と掲載し続けているのは、理解に苦しむというよりも滑稽以外の何物ものでもない。
  5. 先に挙げた危機管理諸論が、先行した他の概念を補完するかのように登場してきたのは、それなりの事情があった。つまりは、新たに発生する不祥事が先行した概念だけでは防ぎ切れなかった(実効面に制約がある)という単純な理由からである。
  6. それ故、毎年毎年、企業不祥事が繰り返されるのであるが、新しい概念やツールでさえも十分に補完の機能を果たし切れていないのが現実である。そうなると先行した元々の理論や概念もろとも不備であり、不完全であったということを意味してしまう。そうなると半永久的に、常時、新概念の登場を俟たねばならなくなる。
  7. つまり、凝りもせず“流行りに急かされる”のである。形だけ取り繕うのである。こうなれば、先行して取り入れた概念や制度の有効性の検証や改善点の検討、さらには他社の不祥事事例の研究なども疎かにされる。これでは繰り返される(新)制度の形骸化が当初からプログラミングされているようなものである。
  8. さて、先行概念の有効性の実践的・実務的検証が不十分であったということになれば、さらにそれより先行する従来の監査役制度や監査委員会、内部監査、監査法人による会計監査、さらには、取締役会や株主総会にまで遡ることができる。これらの積極的運用・活用あるいは運営というものが本当になされてきただろうか。
  9. むしろ、逆に形式的な運営によって、それらの役割を形骸化し、骨抜きにしてきたとは言えまいか。近年で言えば、社外取締役や指名委員会の設置や役割にまでその検証が及ぶことが期待されているのである。この“形骸化の罠”は当初より組織に忍び込んでいることにこそ、“心理”が作用しなければならないのである。
  10. 昔と今とでは企業総数に大きな違いがあるとはいえ、不祥事の発生件数はそれほど大きく変わっていないのではないかとの指摘がある。マスメディアの発達やインターネットの普及、さらには内部告発の増加等により、分母の発生件数に占める、分子の発覚件数が増え、その占める割合が大きくなったとの見方である。
  11. おそらく、事実は分母も分子も増加しているのであろう。いずれにしても、しっかりした制度を整備した“はずであり”、すっかりその“つもりでいた”状況は直近のことではなく、かなり以前から続いていたと見ることができ、見るべきなのである。
  12. それだから、「長年続いていた不正行為」などとの報道が珍しくないのである。実際問題として厄介なのは、この“はず”と“つもり”の中には、“先送り”や“不作為”と言われるリスクが無意識的に溶解していることである。
  13. この溶解している池には、リスクセンスは電導しない。ただ、不祥事として発覚したときに、溶解していたリスクが結晶のように析出する。また、この無意識性はときとして、意識に転換することもあるが、それは“見て見ぬ振りをする”態度として、外見上は見え隠れしているが、実際は明確に見えている(それ故、“場”を選ばず、“場”を超えるのである)。
  14. この二つ目の要因が“心理”たる所以は、この無意識性が深層心理に沈澱しているためである。これをあえて日本特性、あるいは日本企業特性、すなわち、日本人特性と呼ぶこともできるかもしれないが、実際は各国共通であり、日本のみを意図的に貶める論調には本論は与しない。
  15. “先送り”や“不作為”が暗黙にも合意され、含意された「心理集団」は、当然のことながら“ムラ化”することが避けられず、「集団心理」を形成する。強固な岩盤のような“ムラ”の前では、危機管理諸論は無力化してしまう。それは何故か、というより必然的に“流行りの装飾“だけは、“流行りの象徴”となるため、いち早く形だけでも取り入れてしまうのである。

(3)「技術論・手法論」の問題

  1. さて、三つ目の要因は、危機管理諸論の技術論・手法論としての限界についてである。これは、二つ目の「心理」の中で論じたものとかなり重複する部分もあるのだが、また全く正反対のことを述べることにもなる。二つ目の中で触れた“限界”は危機管理諸論そのものに対する(表面的ではなく深層的)“心理”的抵抗のためであった。ここで強調したいのは“手法”としての限界である。
  2. 危機管理諸論の一つひとつは、より洗練された手法として提示されてきてはいる。しかし、個別に洗練されればされるほど「経営」との一体感がむしろ喪失されていく。しかも、個々の手法は屋上屋を架すパーツも少なくなく、また年を追ってバラバラに登場してくるので、危機管理論としての統一感に欠ける。ERMにしても同様である(それぞれに“推し”のグループやコンサルタントが存在していることも影響している)。
  3. ただでさえ、統一感に欠けている上に、「危機管理」も「リスクマネジメント」も「経営」そのものであるのに、別立てのもののように融合・合体することなく並列しているのであるから、心理的受容性に関係することなく、“手法”としての有効性の限界を露呈するのは無理もない話である。
  4. それでも、新手法・新概念はマスコミを引き込み、絡めることによって、関係筋から強く推奨され、またもや“流行り”から(「ほら、次は君の出番だよ」とばかりに)急いで呼び寄せられ、生半可な状態で、形式的な導入を繰り返すという悪循環に陥るのである。“危機管理の危機”など本来笑い話にもならないはずだが、不祥事の頻発がそれを如実に物語っている。

(4)「“手法先鋭化の矛盾”」の問題

  1. 次に、四つ目の要因であるが、これは“手法が洗練され”、さらに“先鋭化”することによって生じるところの矛盾である。コンプライアンスの強化や社内ルール・制度の厳格化により、枝葉末節に拘り、思考停止状態に陥る罠ともいえることである。これは組織の官僚化とも呼ぶべきいえる現象で、経営のダイナミズムや柔軟性、さらには社員の創意工夫・リスクテイキングなチャレンジャー精神などを剥奪していく。
  2. 極端な場合、コンプライアンスの名の下に「あれもダメ、これもダメ」といった自縄自縛状態に陥る。そこには、独創的な発想など生まれる余裕はなく、ただ、不平・不満だけが雪だるま式に鬱積していく。かくて、リスク管理強化方針の一環が、新たなリスクを生む土壌をも皮肉にも育成してしまうという、本末転倒な事態を招来する。
  3. そこで、また新たなリスク管理策が弥縫策の如く、取り入れられれば、理想的かつ見事な悪循環を実現してしまう。これを断ち切るには、経営者の発想の転換が必要である。つまり、原因→結果→対策→原因→結果→対策・・・を繰り返す継続的現象の長期性に対する理解が肝要なのである。
  4. 新たな施策の導入が、あらゆる局面でどのような影響をもたらすのか、それは根本の問題解決に有効であり、単に時流に乗っただけでなく問題の本質を捉えているのか、との深い洞察に加え、もともと自社の社会的使命は何だったのか、という原点回帰への自問自答をも絶えず繰り返すことが求められている。

(5)「“保身”」の問題

  1. 最後に、五つ目の要因である。それは、人間的宿痾とも呼ぶべき“保身”である。“問題のすり替え”とも密接に関係するが、こちらはあくまで手段であって、目的はまさに“保身”の方である。現在は、どの業界のどの企業でも、激烈な競争環境の下に置かれている。
  2. しかも、それはグローバルレベルでの競争環境であり、独自のビジネスモデルが一時、成功したとしても、それがいつまでも続く保証などどこにもない。ましてや、M&Aの対象になる可能性もあるし、思いもかけぬ新技術の登場で自社モデルがあっという間に、陳腐化するリスクにも晒されている。
  3. そのような状況のなかでの企業の危機管理として、最優先されるのは、生き残りということになる。ただ生き残りということになると、そのためには何をやっても良いのかという問題が浮上してくる。例えば、トップが自社の生き残りのために居座るのか、身を引くのか、大幅なリストラを断行するのか、それとも身売りをするのか、幾つかの選択肢がある。
  4. 当然、経営責任とも絡んでくる話であるが、組織の生き残りなのか、己の生き残りなのか、よく分らないような状態が最悪のパターンである。有効な危機管理施策の未着手や長期に亘るリスクセンスの喪失なども含めた、経営課題の先送りが主たる原因であるにも関わらず、“問題のすり替え”→“責任を全うせず”→“保身”を図るというパターンは最悪である。このパターンは、発想の端緒から「企業不祥事」を形成するに十分な準備が整えているようなものである。
  5. さらにこのパターンの中に、“誰かの犠牲”が含まれている場合は、信頼回復は絶望的である。例えば、リストラ自体が直接不祥事につながるわけではないが、これを実行すれば、誰かを、あるいは何かを犠牲にすることが誰の目にも明らかな場合は、当然のことながらCSR的にもSDGs的にも再検討が必要である。
  6. また仮に、他社と戦略的アライアンスを組んだとしても、そのためにこのような犠牲の上に成り立つ関係や形式実在をもって、巷間言われるところの“ウィンウィンの関係である”などと、無邪気に喜んでいる場合ではない。ウィンウィンの背景には、当然膨大なルーズルーズの存在がある。その両者の比率が2:8とか1:9などであれば、どの国においても社会的格差はますます開く。
  7. 社会的格差の拡大はやがて社会を崩壊させる。そのような崩壊した社会におけるビジネスの勝利者とは、あるいは保身とは、一体何を意味するのだろうか。その勝利には何の意味があるのだろうか、経営者はその満足を希求してきたのか。危機管理諸論は、そのような社会を到来させるために用意・構築されたのでは決してない。

2.忘れてはならないこと

ここまで不祥事発生とその対策としての危機管理諸論の関係を、五つに分けて論じてきた。すなわち、

(1)「範囲・場」の問題
(2)「心理」の問題
(3)「技術論・手法論」の問題
(4)「“手法先鋭化の矛盾”」の問題
(5)「“保身”」の問題

である。危機管理諸論については、その限界を熟知・承知した上で、決してその応用や適用を間違わないよう細心にして、最大の留意・考慮が必要である。

これらに関しては、優れてリーダーシップの問題が包摂包含されているが、むしろ、リーダー個人に帰するだけでなく、組織の智恵として、継承すべき性質のものである。そしてその知恵によって組織文化が形成され、強化されていくのである。経営者とは聖人君子のことではないし、またそれが経営学的に期待されているわけではない。
しかし、トップの影響力は絶大である。自らを戒め、部下の声に真摯に耳を傾ける謙虚さが、何よりも重要であることは、論を待たない。この姿勢の堅持の後には、必ず社員からの尊敬と有能なスタッフによる助言が付いてくるはずである。

一時の成功体験の自己陶酔からは、早く覚醒しなければならない。他者の犠牲や不幸を前提とした成功は、決して長続きはしない。いつ、自分が犠牲者側に回るか分らないシステムのなかに、すでに私たちは生きていることを余儀なくされているのである。そのような自覚がなければ、その成功におけるプロセスにおいて導入された危機管理論や施策の目的は、いずれ保身に変容せざるならざるを得ない。
この保身は、個人でも組織でも結果として、形式的な処方やその場凌ぎの態度を採らせる誘因として作用する。自分(あるいは自社)だけ良ければそれで良いとする利己主義や見て見ぬ振りをする無責任な態度を取ることを恥と思わぬ動機を生んでしまう。
それを防げるのは、残念ながら危機管理理論ではなく、各個人の“人間性”である。兎にも角にも、その“人間性”による理論の理解と実践が重要なのである。リスクや不正の元となるネタは、各組織の沈殿物のようなものであり、変わらない(変われない)宿痾のようなものでもある。その“意識化”が現状分析や理論の実践に当たっての大前提となる。

ここまでいくら危機管理やリスクマネジメントを声高に唱えても本質的に不祥事がなくならない社会的構造と社会的心理並びにそのメカニズムを筆者なりに分析してきた。次回は、「企業不祥事」の12の個別具体的要因について解説する予定である。

以上

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