リスク・フォーカスレポート

広報と危機管理編 第六回(2013.7)

2013.07.24
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 さて、本連載も本日で最終回となります。『広報と危機管理』というテーマ設定ながら、これまで狭義の危機管理広報やクライシスコミュニケーションなどよりも、「企業の社会的信頼性」をキーワードに、レピュテーション・ガバナンス・CSRなどの周辺関連領域まで含む広範なビジネスリスクと広報の関係性を論じてきました。最後は、さらにソーシャルリスク領域まで視野を拡げて、企業広報リスクを総括したいと思います。

「広報とメディアコントロール」

コントロール対象としてのメディア

 本連載の第1回「企業の基本的スタンスとしての広報」で『”宣伝”という言葉の響き、そのイメージに内包される二つの側面、即ちマーケティングと情報操作やプロパガンダに関しては、それぞれ本連載中に稿を改めて取り上げる・・・』として、マーケティングとの関係に関しては、ある程度そこで詳述できたが、後者に関しては、最終回まで持ち越すことになってしまった。非常に重要なテーマなので、広報(宣伝)-メディア-受け手(読者・視聴者・国民)のトライアングルのなかで考察していく。

 時の為政者が自らの進める施策に対する賛同と合意を得たいと欲するのは、古今東西変わらない。また、そのときに彼らにとって、その目的に対し最も効果を発揮する手段がマスメディアである。

 「マスメディアは、公正中立・不偏不党を旨としているのだから、為政者に都合よく利用されることはないはずだ」と考えたいところではある。だが現実には、公正中立や不偏不党などあり得ない。社論を掲げ、論説を展開する以上、さらに、どの政党やどの国に対してシンパシティックであるか、逆に敵対的であるか、あるいは腰が引けているかなどの独自の立ち位置を堅持している以上、各社ともメディアとしての特色・特徴を有するのは当然のことである。

 したがって、そこに客観報道の意味するところが、実は個々のメディアによって相違してくることが理解される。同時に、偏向報道の批判を呼び込む余地もまたそこにあるわけである。

 また、メディア間の熾烈な競争環境が一大背景として存在する。ネットメディアの台頭による影響力の相対的低下が指摘されているなかにあっても、相変わらず販売部数競争・視聴率競争に明け暮れていれば、”ジャーナリズム精神”や”社会の木鐸”といった古臭い言葉をあえて持ち出すまでもなく、何がしかの歪みが生じてくるのは自明である。

 例えば、スクープ至上主義や、”特オチ”への過剰な恐怖心が、権力との適正な距離感を保つ感覚を狂わせる。そうなれば、ただでさえ自らに都合の良い世論を形成したい誘惑に駆られる権力者や為政者がメディアコントロールによって情報操作する、またとない環境を自ら提供することになる。これでは権力の監視という「第4の権力」の特権・資質を自ら放棄することと同じである。

 権力(者)の懐に入り込まなければ、”良いネタ”が取れないとするアクセスジャーナリズムには”ミイラ取りがミイラになる”陥穽が待ち受けており、特定集団の意見・利害を代弁したり、その集団の敵対者を攻撃する片棒を担ぐ結果になりかねない。

 権力によるプロパガンダは、特定方向への世論の誘導を狙ったものなので、色々な細工が施され、”論点隠し”や”論点のすり替え”などが頻繁に行なわれる。それに気づき、それを見抜く眼識こそが積極的客観報道の前提にあるべきだが、現実には、その前提が用意されていないために、図らずもメディアがプロパガンダに加担してしまうケースが生じてしまう。ましてや、意識的な加担となれば、最早、民主主義国家における報道機関の名には値しないだろう。

 また、”片棒を担ぐ”ということに関して付言すれば、最も警戒・畏怖すべきものは冤罪への加担である。当局からのリークとメディア間のスクープ合戦が繰り返され、織り成されるような展開では、例えば一容疑者が確定された犯人であるかのような論調(印象操作)が継続されるケースが少なくない。

 特に、メディア業界の既得権益に反対する重要人物に何らかの容疑がかけられた場合、ここぞとばかりに、全体主義的バッシングに一斉に走る傾向が見られる。

 まるで鬼の首を取ったかのような情動的報道に全体が染まっていった事例を我々は幾つも目にしている。これは、客観報道とは対極にあるもので、むしろ思い込みの世界といえる。そして、冤罪は単なる捜査不足の範囲を逸脱して、でっち上げや国策捜査の形に姿を借りることもあるため、よりたちが悪く、根深い問題である。

 これらの事例は、記者クラブ制度が抱える問題点だけからの現象に止まらず、日本のメディア企業全体に内在する発表ジャーナリズムという発信元からのネタ待ちの態度と権力に擦り寄る姿勢が、情報源の情報操作意図と内容の信憑性に対する審美眼を曇らせる結果として、招来されてくるものである。そのため、会社経営・存続のためのコマーシャリズム重視と相俟って、調査報道を定着させにくくし、逆にメディアコントロールの余地を拡大させてしまっている。

 国益や公益に資さない特定政策に対する諸手を挙げたメディアからの後押しの背景には、これまたメディア業界の既得権益の保持という狙いが隠されている場合もある。このときは、メディア側と権力側とで、何がしかの貸し借りや手打ちがなされている可能性もある(消費税・独禁法・電波割当て等々)。

自律コントロールするメディア

 前項で述べた各種の「加担」を考慮すれば、受動的に”コントロール対象としてのメディア”から、能動的に”自律コントロールするメディア”にすでに転換しているといえなくもない。

 ”自律コントロールするメディア”には三つの側面がある。一つは、主体的に情報操作しようとする意図・動機の問題である。一番分かりやすいのがヤラセや誘導の問題である。

 誘導の場合は、主に取材源の偏重や政党・内閣支持率調査の質問項目設定などに見られる。ヤラセに関しては、新聞・テレビともに、この誘惑をなかなか断ち切れない。これは情報操作には違いないが、明確に捏造の範疇に入るものである。

 二つ目は、自己コントロールに関わる問題であり、報道の自主規制・自粛という型の”コントロール”である。したがって、当局の顔色を窺いながらというレベルの話しもあり、また「報道の自由」を超えたレベルで、メディアの良心が発揮される場面もある(例えば、人質の安全を最優先するなどの場合)。

 三つ目は、自己コントロールを逸脱し、制御不可能な”報道の暴走”に至るケースである。過剰な報道合戦やメディアスクラムなど常軌を逸した振る舞いなどは、社会的病理現象とも指弾されるものであり、メディアに対する信頼性を著しく低下させている。

 これら三つの側面は、いずれもセンセーショナリズムやコマーシャリズムからの強い影響を受けている。但し、それがために自らの社会的信頼を失墜させ、自分で自分の首を絞めている状況に陥っている。この”自律コントロールするメディア”システムの各特性とメカニズムを熟知した上で、結果的に”コントロール対象としてのメディア”化を、当初から計画に入れている権力に対しては、なかなか太刀打ちできるものではない。

 また、情報操作というにはレベルがやや低い問題になるが、同様に”メディアの劣化”といわれている現象の一つにコンテンツ自体の劣化がある。これはメディア側の取捨選択基準と、国民(読者・視聴者)側が本当に知りたいもの(もっというならば、知らせるべきもの)との間に乖離・不一致が見られることも一因となっている。

 新聞でいえば、まずはニュースとして取り上げるかどうかの判断、取り上げた場合の扱いの大小の判断、あるいは速報性の判断等が、国民目線や国益から見て妥当なものかどうかの継続的な自己検証と他者検証が必要である。

 またテレビの方も、例えば「行列ができるラーメン屋(スイーツ店)さん」とか、芸能人のスキャンダルなどは本当に強く求められているものなのか、しかも繰り返し求められているのかどうか、その上、同じような番組やコーナーが各局にたくさんあり、それをまた繰り返し垂れ流すことにどれだけの意味があるのかなどの素朴な疑問が生じている。

 本来大切な「公共の電波」という観点からすれば、もっと重要な知らせるべきものがあるのではないかという問題提起である。

 実は、報道・放映されるものと読者・視聴者の知りたいものとの乖離と一致は同時に発生しているはずであるが、一致割合の方が少なくなっているために、メディア不信・メディア離れが起きていると推測される。メディア離れがさらに一段と進めば、”コントロール対象としてのメディアは、何に、どこに変移していくのだろうか。ということで、ここに至れば、ニューメディアに言及しなければならないだろう。

 SNSをはじめとするニューメディアとメディアコントロールとの関係(相性)を考えた場合、権力・権威からコントロールされる場合は、やはり自らの都合の良い状況を創出するための”なりすまし”を呼び込むことになるし、すでに現出している。さらに、自社関連サイトや口コミサイトではスティルスマーケティングが浸入しやすく、発覚すれば炎上に至る。ニューメディアに対する情報操作は巧妙さがより高度に必要とされるが、バレた場合のリスクは大きいといえる。

 また、自らコントロールする場合は、ほとんどネット言説空間における論争の形に着地するため、ブログを中心にして展開される。諸ブログには、特定政党や団体のひも付きのものもあれば、”勝手連”的サポーターもいれば、是々非々論者もいるため、既存メディアの言説空間と同様のリテラシーが非常に重要になってくる。

主体的にコントロールする企業

 企業がメディアをコントロールする意図とパワーがあるかどうか、またそれらがあったとしても、実際にコントロール行為を実行している(場合によってはメディア支配がある)かどうかは別にして、そのコントロール手法には広告と広報の二領域があることが知られる。本来独立して、相互不可侵であるはずのこの二つのコミュニケーション活動(企業側から見たシナジー効果は別として)が、一体のものとしてメディア側に無言の圧力をかける(大量の広告出稿量の影響力を行使する)実態がしばしば指摘されている。

 具体的には、良いニュースはより大きく長期に、悪いニュースはより小さく短期間の扱いにするといった具合である。

 企業側は広告出稿先メディアを多様化させていながら、地盤沈下の既存マスメディアに対して、このような力任せの傲慢な対応を取ることは、やがて当該企業のレピュテーションを悪化させることになる。その企業(の担当者)にリスクセンスや危機管理的素養が少しでも備わっていれば、このような選択肢はあり得ないはずである。

 特に、事件・事故・不祥事等を起こしてしまった緊急事態においては、”悪いニュース”は”悪いニュース”として扱われることを覚悟した上で、各ステークホルダーへの告知・説明等の情報開示を粛々と進めることが肝要であり、マスメディアを対象とする「危機管理広報」がキーポイントとなる。これなくして、クライシスマネジメントを上手く機能させることはできず、事態の早期収束と信頼回復のためにも必要不可欠なものであることはいうまでもない。

 このときに必要とされる誠実な対応にとって、広告サイドからの圧力は不要である。クライシス局面における説明責任は、メディアが劣化しようがしていまいが、それとは関係なく、企業のあり方が問われる場面なのである。逆に企業の劣化や広報の劣化を招くような、あるいは印象付けるような、余計なメディアコントロールなどに手を出してはいけない。傲慢さは、危機管理の円滑な遂行を阻害するものであることを銘記すべきである。

自己コントロールする企業(企業のメディア化)

 本連載の第2回「広報とメディア」で、トリプルメディア論に論及し、また、アーンドメディアのソーシャルと、例えばCSRのソーシャルは異質であることも付記した。アーンドメディアがバズマーケティングの延長線上で捉えられる以上、その本質は広告メディアである。国民や一般消費者から見れば、従来から多様な広告メディアに取り囲まれてきたわけであり、その意味ではアーンドメディアとて、一つの新しい形態との認識でしかない。

 実は、それよりも先に広報・IRの分野では企業のメディア化が別の形で進んでいる。一部の大手経済紙が企業広報の第一義的パブリシティ先であることは、媒体特性から見て、ある意味当然ではある。記事掲載の確立が高いためである。ただ、そのために同紙へのリークがいつの間にか常態化してしまっている。ただ、掲載するだけでなく、扱いも大きくなるからである。

 しかし、ここにもメディアコントロールの罠が待ち構えている。一応スクープの形を取る同紙掲載の記事に対して、企業側は適時開示で「本日の一部報道について」と題して、コメントを発表する。実態はリークされたものがスクープになり、その内容は「当社が全く関知しないところで、憶測を踏まえて報道されたもの」というコメントに繋がっているのである。

 これでは、インサイダーすれすれのリークが、結果的に株価上昇の契機となることで、企業側と一部メディアの合作による証券市場向け出来レースともいえ、情報操作以上に市場に対するミスリードにもなりかねない。これは「広報の基本」を踏み外す行為であり、コンプライアンス面からも看過できる問題ではない。

 これに関しては、もちろん企業、メディア双方に問題がある。企業にとっては、既存メディアの弱体化を揶揄しながら、一方では共謀関係になることを意味している。また、メディアにとっては、普段から企業広報の公平性・平等性を強く求めていながら、実は地道な取材活動ではないところから得た情報をスクープ化して、社内の評価を獲得しようとの動機付けが作用している。企業ネタは政治報道とは異なるが、調査報道とは程遠い姿と言わざるを得ない。

拡大するリテラシー領域

 これまで述べてきたことは、全て最終的には情報を受け取る消費者・国民のリテラシーに関わってくる問題である。メディアや企業自身にとってもリテラシーは必要であるが、ネットも含めたリテラシー主体はやはり国民である。

 本連載全体を通じて明らかなように、広報環境・メディア環境ともに変容している。それ以上に、社会環境が激変しているため、ますます情報操作されたメディア情報に振り回されないよう、また頭から信じ込まないようにする必要がある。そのためには、リテラシー能力を上げざるを得ない。それは、そのまま国民の民度や成熟度を測る目安にもなるのである。

 時の政権が愚民化政策を図り、メディアがそれに加担するようなことがあっても、消費者・読者・国民は決してリテラシーを放棄してはならないのである。ということは、同時に自らがポピュリズムの推進派に堕することも許されないことを意味する。

 できるだけ多くの国民・読者・視聴者がリテラシーを身に付けるようになると、各メディアはどういう影響を受けるだろうか、それは即ちいい加減なことは書けなくなるのである。

 メディアがいい加減なことを書けなくなると、あるいはメディア自身が取材源の情報操作を見破り、それを批判するようになるとどうなるか、今度は取材源はどういう影響を受けるようになるか、それは即ちいい加減なことができなくなる、嘘を吐くなどもっての外で、メディアコントロールなどしにくくなるのである。

 つまり、取材源・メディア・読者に良い緊張関係のループが形成されるようになる。取材源の一つでもある企業広報にとっても、この緊張感がリスク耐性やダメージ耐性、さらに広報の質を向上させることになるばかりでなく、広報環境・メディア環境全体の改善に繋がっていく。

 さらに、流布する言説やレピュテーション自体へのリテラシーは、リテラシーのループをも超えて、情報の受け手として過敏な”過剰反応”を控える冷静な態度の醸成に資するという意味では、いわゆる”風評被害”の防止にも有効と考えられる。

 各企業には、自らの広報戦略を洗練化させる意味でも、メディアコントロールの怖さとリテラシー教育を先導するくらいの覚悟を有してほしい。それが、結果として自社の広報レベル・危機管理レベルを向上させることになるのである。特に、「広報と危機管理の構図」をミクロだけでなく、マクロ的に把握することが非常に重要となっている。

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