リスク・フォーカスレポート

広報と危機管理編 第五回(2013.6)

2013.06.19
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「広報とCSR」

CSRとは何か

 本連載では、これまで広報コミュニケーションの中枢たるソーシャルコミュニケーションを基軸に、企業と広報に関わる社会性や社会的信頼性について、多様な視点から論じてきた。その進むべき方向性に対する一つの提案が、前回取り上げた「ソーシャルガバナンス」という考え方である。これに近似的な概念として、「ソーシャルリスクマネジメント」や「パブリックリスクマネジメント」、あるいは「リスクマネジメント的公共政策」といったものがあるが、これらの関係性については、何れまた別の機会に稿を改めたい。

 もともと、CSRと広報の関係でいえば、社会貢献や社会的責任をPRすることに対しては、賛否両論があった。陰徳ともいうべき行為をわざわざPRするのは如何なものか、との意見が結構根強かったのである。ただ、企業活動全体に対する情報開示の要請が高まるなかで、社会的責任活動の内容や成果を開示するのも、また一つの社会的責任であるとのコンセンサスが醸成されてきた。

 さて、企業と広報に関わる社会性や社会的信頼性について論を進めるということは、自然と企業の社会貢献や社会的責任に言及せざるを得ない。CSRという言葉も、やや結論を急ぐかのように幾度となく使用してきた。例えば、第2回「広報とメディア」では、以下のような二つの文章を記した。一つは、『・・・この文脈から、ソーシャルコミュニケーションは、自然とsocialresponsibleな状態やレベルの実現を志向する。あえて、CSRといわなくても、そうならざるを得ないのである』、二つ目は、『・・・以上を踏まえた上で、CSRコミュニケーションと表現した場合、具体的なCSR活動や、CSRに対する各企業の考え方についてのコミュニケーションのことを指す以上に、そのコミュニケーション自体、その有り方・在り様がCSR的にならざるを得ない、という意味に解釈すべきなのである』と。

 この二つについて、改めてここで解説することはしないが、要は、現実論は一旦横に措くとしても、あくまでも議論の前提に関わる問題を含んでいることが理解される。

 前提とは、企業目的は社会目的に合目的的であり、企業は社会的存在であり、反社会的存在ではないということである。そこから、企業コミュニケーションは社会的(ソーシャル)コミュニケーションであり、反社会的コミュニケーションではないという命題が導かれる。企業の社会的責任(CSR)を果たすことが、”社会目的に合目的的である”ことは論を俟たない。CSV(CreatingSharedValue)とて同じことである。「共通価値の創造」にしろ、「社会問題の解決」にしろ、”社会目的に合目的的である”ことに相違はない。

社会的存在と反社会的存在

 ここで、一旦横に措いた現実論に戻ろう。実際には、すべての企業が社会的存在、あるいは、”社会の公器”と呼ぶに相応しい存在かどうかは実は、甚だ疑問である。フロント企業や詐欺的商法をビジネスモデルとする企業群は、まぎれもなく反社会的存在である。

 また、近年では労務環境が劣悪で、従業員の定着率が極端に低い企業などが「ブラック企業」などと呼ばれている。一つ一つの個別ケース毎に、因果関係が確定しない限りは、明確な論評は避けなければならないが、仮に、当該”ブラック企業”が統合失調症やうつ病などの精神疾患に罹った多くの若者を「社会」に戻し、送り出すプロセスがすでに循環し始めているなら、明らかに社会的コストも、社会的リスクも増大する。

 さらに、重厚長大型の装置産業やその周辺産業でも、これまで何度となく独占禁止法に抵触し、公正取引委員会から再三の注意や勧告を受けている業界もあるし、また、直近では、多くの著名大企業でリストラ用の『追い出し部屋』の存在が問題となり、社会的批判を浴びたことは記憶に新しい。

 このように見てくると、表現はきつくなるが、存在や活動、そのものからして反社会的存在である企業と、反社会的行為から逃れられない一部の企業がともに少なからずあるということである。その上、というより、それにも関わらず、それらの企業はある意味では、しれっとして、継続してWebサイト上で、自社の取り組むCSR活動を謳っているのである。

 このような感覚は、あまり話題になることはないが、社会的信頼性の観点からすれば、如何なものかといいたくなる。

 これらの各企業の考えや立場はもとより様々であるが、反社会的存在である一部の企業群を除いては、CSRのS、即ち社会(society若しくはsocial)に対する捉え方に基本的な方向性の違いが見えてくる。それは社会的責任(SR)の果たし方に対する捉え方の違いでもある。一つは、これまでのCSR活動の延長線上のものであり、環境問題への取り組みであったり、BOP(bottomofthepyramid)ビジネスに見られるように、自社の経営資源・事業領域を活用した上で、社会的課題を解決していこうとする潮流である。

 この場合、社会的不公正や経済格差に対する何がしかの問題意識を共有されており、またCSR活動の対象としては国内外を問わないという特徴を持ち、提携するNPO・NGOなども国際的である。

 もう一方は、企業の社会的責任を発揮する領域を市場経済のなかに限定している立場である。その意味では、国益としての国際競争力の維持と向上に重きが置かれている。

 そこでの合言葉は、「このままでは日本経済も日本企業も、世界から取り残され、やがて沈没する」というやや脅迫めいた台詞が多用される。

 したがって、こちらのグループは自ずとグローバル経済を推進する立場となるため、事業拠点も、従業員も多国籍化していく。これは、例えば「モノ作り国家、日本の自信を取り戻そう」というスタンスとは明らかに方向性が異なるものである。

 この立場をCSVに当て嵌めてしまうと、CSVが標榜する「共通価値の創造」が、最終的に誰と誰にとっての「共通価値」なのかという議論を招きかねない。

 筆者はかねてより、その対象がグローバルであれ、ドメスティックであれ、CSRの真髄は、”社会の劣化防止”にあると主張してきた。社会の劣化が止まらず(止められず)に進んだ場合、企業はその社会において、CSR活動どころか、本業の事業活動さえ、ままならない状況へと悪化するのではないかと危惧されるのである。

自分の足元-自国社会への貢献

 社会的責任の果たし方や、その活動領域に二つの方向性の違いがあるにせよ、最終的には、まず何はともあれ、自国の社会の不公正や病理が取り除かれることをサポートして、社会的問題を解決していく方針と態度を堅持することがCSRの基本であり、CSRの理念であるべきである。

 不合理や不条理、あるいは無慈悲、さらにいえば自覚や覚悟のない無責任で未熟な精神の蔓延、いじめや根拠のない攻撃を楽しむ感覚、いわれなき差別の助長、貧困の拡大等々の社会的諸問題に対して、企業が目を瞑りコミットメントしない、あるいは自らがそのような問題発生の温床になっているなどという構図や状況は許されるべきことではない。そのような企業や企業のトップはCSRなど口にすべきではない。また、CSRによって企業や業界の固有のリスクが覆い隠されるなどとの心理が働けば、それはただリスクを増大させるだけである。

 企業が社会的諸問題に対する解決策を事業を通じて提示・提供していけるのであれば、それはもちろん賞賛に値する。社会的問題とは、社会全体が抱える問題でもあると同時に、社会の一部が抱える問題であったとしても、社会全体がその問題を十分に認識しており、またその解消や解決を望んでいる事象のことである。

 ということは、その企業のCSR活動を社会の一部を構成するその企業の各ステークホルダーも支援・賛同していることになる。さらにいえば、その企業の非ステークホルダーもまた、社会の一員として、同様に支援・賛同しているはずである。それは当然のことながら社会による企業評価につながるものであるから、当該企業の各ステークホルダーからの評価と非ステークホルダーからの評価は、社会全体に蓄積された当該企業のレピュテーションということになる。

 実は、ここに「統合報告書」の意味もある。財務情報・非財務情報含めた「統合報告書」は、当然のことながら、株主などの特定ステークホルダーだけでなく、全ステークホルダー向けて出される報告書である。

 さらに、それがWebサイトにアップされたり、マスコミに配布されたり、マスコミから取材を受けたりすれば、非ステークホルダーも含めた社会全体へとその情報は行きわたる。

 この「非」も含めたマルチステークホルダーへの情報開示・説明責任がコミュニケーションとしてのCSRであり、またCSRコミュニケーションなのである。そして、冒頭に再掲したように『・・・そのコミュニケーション自体、その有り方・在り様がCSR的にならざるを得ない』からこそ、CSRコミュニケーションなのである。したがって、ソーシャルコミュニケーションを中核とする広報コミュニケーションが、CSRコミュニケーションに深く、積極的にコミットメントしていくべきなのである。

 第2回「広報とメディア」では、以下のようなことにも触れた。即ち、『企業自身がメディア化するならば、他のメディアとのコミュニケーションとの相互交換・相互乗り入れ・相互対話は欠かせなくなるので、コミュニケーション内容や発信・開示姿勢の整合性や一貫性がシビアに問われることになる。そして、その問いの発信源は何か--。それが社会性であり、社会的責任であることは最早自明であろう』と。

 企業のメディア化がどの程度まで進むかは、現時点では不明であるが、自社に対する厳しい指摘や批判の声にも、あえて耳を傾けるという姿勢を踏まえ、さらにそれを超えて、社内にジャーナリスティックな眼まで移植することは、さすがに不可能であろう。

 企業が社外との応答頻度を高め、十分な説明責任を果たしていると自認しているとしても、多様多彩なジャーナリスティックな眼を常に近場に置きながら、そのような評価の眼や声に真摯に向き合い、誠実に対応していくという「広報の基本」は、何ら変わることはない。この連携的距離感に、広報とCSRの関係が凝縮されているといって差し支えない。

 ただ、このときの”近場”の眼や声の主が、既存のマスメディアのままであるかは、これまた予測が難しいところである。

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